人が恐れた怨霊とは、恨みを持って生きているものが、災いや
祟りをなす死霊や生霊のことを言います。
特に、怨霊の存在が意識されるようになったのが平安時代の
頃からで、天変地異や疾病の原因を政争での失脚者、戦乱で
の敗北者たちが「死後怨霊となって祟りをなす」と恐れられてい
ました。
それら怨霊を慰め祀り上げることにより、祟りを鎮めて安穏を
確保し、さらに鎮護の神へと昇華しようとする信仰が起こりま
した。
朝廷が凶事を卜占によって原因となっている怨霊を特定し、怨
霊の祀り上げ(御霊会)を朝廷主導で行われるようになりました。
幾つかの神社などにおいて、実在した歴史上の人物が神として
祀られています。
特に日本三大怨霊とされる
崇徳院(崇徳天皇)は、香川・坂出市の白峰宮や
京都・上京区の白峯神宮。
菅原道真公は、福岡・太宰府市の太宰府天満宮や
京都・北野天満宮。
平将門公は、東京・千代田区の神田明神。
に其々祀られています。
保元元年(1156)鳥羽法皇の病が発端となり、皇位継承問題が
朝廷内に起こり、摂関家の内紛も加わり、朝廷が後白河天皇方
と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至る保元の乱が起
こりました。
合戦に敗北した崇徳上皇は「国家を危めん奉と欲する子細、
実により弁じ申せ」と自白を強要され、罪人として讃岐国に軟
禁されます。
崇徳院怨霊画です。 (Wikipediaより借用)
崇徳院は、五部大乗経の写本を京の寺に納めてほしいと朝廷
に願い出たのですが、後白河院は「呪詛が込められている」と
疑ってこれを拒否。
これに激しく怒った崇徳院は、舌を噛み切って写本に『日本の大
摩縁となり、皇を取って民とし 民を皇となさん』 『この経を魔
道に回向す』と血で書き込み、夜叉の姿となり生きながら悪霊に
なったと伝えられています。
平安貴族で忠臣として名高い菅原道真公は、宇多天皇に重用
され寛平の冶を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣まで務め
ました。
ところが摂関家の左大臣藤原時平公に讒訴され、太宰府へ太宰
員外師として左遷されました。
道真公は無実を訴えながら失意のうちに太宰府で亡くなりました。
雷神に祈る菅原道真公画です。 (Wikipediaから借用)
延期3年(903)道真公の死後不可解な出来事が続発し、道真
公の左遷に係った人物の相次ぐ不審死や、日照りによる作物
の不作、流行病などが続発します。
これを道真公の祟りだと恐れた朝廷は、道真公の罪を赦すと共
に正一位太政大臣を贈位し、名誉回復と天神として祀ることにな
りました。
承平5年(935)下総国・常陸国に広がった平氏一族の抗争から、
関東諸国を巻き込む争いが起こると、平将門公は国衛を襲撃し
印侖を強奪。
京の朝廷朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を
標榜します。
しかし、わずか2ヶ月足らずで藤原秀郷・平貞盛らによって討伐
され、死後は御首神社や神田明神神社に祀られました。
妖怪うぃき的妖怪図鑑 (Wikipediaより借用)
太平記に、さらしものになった将門公の首級の話が書かれて
います。
将門公の首は何か月たっても腐らず、生きているかのように目
を見開き、夜な夜な「斬られた私の五体はどこにある。首をつな
いでもう一戦まみえよう」と叫び続けたので、恐れをなさない者は
なかったと伝えられています。
あるとき、歌人の藤六左近がそれを見て、「将門は こめかみよ
りぞ 斬られける 俵藤太が はかりごとにて」と歌を詠むと、将門
公はからからと笑いたちまち朽ち果てたと云われています。
葛飾北斎「近世怪談霜夜星」に登場する怨霊です。 (Wikipediaから借用)
オン バサラ タラマキリク
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