漫才や落語にドタバタ喜劇などの『お笑い文化』が盛んな
大阪で、何でもかんでも笑いに結び付けようと、
神様仏様まで笑いの種にし、お説教の
道具にITを使ったお寺があります。
今日はそんなお寺に訪問です。
JR関西線の平野駅から南に下り平野商店街を東に
向かうと15分程で全興寺さんの前にやって来ます。
大阪・平野区にある全興寺は高野山真言宗の寺院で、
1300年前に聖徳太子により建立されたと云います。
商店街に面し新世界の演芸場入り口と
間違えるような❔所から境内に
本尊の薬師如来が祀られた本堂に一礼して、
なにぃ~い、こりゃあ便所かいな❔
便所(# ゚Д゚)とはなんと罰当たりなことを(# ゚Д゚)
ここが閻魔堂のお堂なんです。
堂内に入るとすぐ右側正面にお馴染みの閻魔さんが
『にっこり』と鎮座しています。
何処が笑とんねん
一寸薄暗い堂内にこの人形、特に奪衣婆の
薄気味の悪さに思わず苦笑い。
お賽銭箱の下に設けられた銅鑼を叩くと、浄玻璃鏡に
亡者が約10分間映し出され、同時にお説教も
言葉や映像は恐怖心を掻き立てるものが
並んでいましたが、
本当に伝えたかったのは、
『一番の悪行は親より先に死ぬこと』
『自分自身の命を大切にしろ』
ではないかと
『ボヤ~と生きてんじゃねぇ~』と、
チコちゃんに叱られそうです。
が、
あんまり当たり前すぎて
この程度では笑えへんで
↧
大阪の『おもろい寺』と称される全興寺、平野商店街に
面した境内入り口を演芸小屋に喩えて今いました。
が、
きちんとした山門を
紹介するのを忘れていました。
それと、
全興寺の西側の通りに面して山門があります。
其の山門の南側には❔
駄菓子屋のような佇まいの『おも路地』があります。
みちくさ学校と言って学校帰りも子供や、勤め帰りの
人達が気軽に立ち寄れる施設で、定期的に
各種講座が開かれています。
また、
だがしや広場と言って駄菓子屋さんを兼ねた
遊び広場にもなっています。
おも路地のみちくさ学校や、だがし広場の説明から
閻魔堂の説明入れば、閻魔様のお説教の
趣旨が良く分かったんですけどねぇ。
一番の悪行は親より先に死ぬこと
自分自身の命を大切にしろ
の
↧
↧
大正から昭和にかけて娯楽の聖地として賑った新世界。
付近の『てんのうじ村』には日本全国から芸人たちが集住し、
昭和20年~30年代には300人以上もの
芸人が暮らしていたそうです。
そんなてんのうじ村の記念碑のある山王1から、
山王交差点まで戻り南を眺め『あ~この商店街の
向こうは飛田やなぁ』と独り言をつぶやきながら、
正面のJR線の地下道を潜ってジャンジャン横丁へ
地下道を潜ったら直ぐ目の前にジャンジャン横丁。
ジャンジャン横丁を通り抜けて❔❔❔ショップを
右横眼で眺め、突き当りを右に曲がります。
ジャンジャン横丁を経て串カツ屋の前から振り返り、
『串カツ屋だらけになってもたなぁ』
『昭和の時代が懐かしいわ
』
と、またまた独り言をつぶやきながら
北の方に目を向けると
良かっためちゃすいてるやん!(^^)!
!(^^)!
昔は串カツ屋、みんな屋台やったのに、
今は店舗に行儀良う納まってしもて。
ここから少し北に向かいます。
先ほどの所から正面の建物の間に、昔は噴泉浴場と
名付けられた温泉ランドが在ったそうです。
今は駐車場になってますけどね。
正面の建物、シアター朝日は明治43年(1910)創業の劇場で、
過去には曾我廼家鶴蝶、ミヤコ蝶々、ディク・ミネ、
藤山寛美等の役者が勉強していたそうです。
シアター朝日の北隣には新世界国際劇場があります。
新世界国際劇場の建物は昭和5年(1930)の建築で、
以前は南陽演舞場という芝居小屋やった
そうなんです。
空襲の被害がなかったんやねぇ。
朝日国際劇場の北の筋向いには浪速クラブといって、
自称日本で一番粗末な建物で、日本一安い
木戸銭と、入場者の多さと芸人の質の
良さを自慢する大衆演芸場
があります
元来た道に戻り堺筋に出ます。
堺筋がJR関西線のガード下を潜る手前まで戻って来ました。
正面の建物ドン・キホーテとパチンコ屋のマルハン。
ついこの間までこんなのが立っていたんですけどねぇ❔
フェスティバルゲートといって都市型の遊園地が、
平成19年(2007)まで在ったんですけど
マルハンの前から大阪メトロ御堂筋線の
動物園前駅直結しているので
今日はそちらから
帰宅です。
↧
October 10, 2018, 5:04 am
『みっくちゅじゅーちゅ』って何んかいなぁ❔
大阪・新世界ジャンジャン横丁の
『千成屋珈琲店』が発祥と
されています。
先日ジャンジャン横丁を通って気になる看板の
お店を目にしました。
「千成屋珈琲」さん、平成28年(2016)に閉店したと
聞いていたのですが、再開しはったんですねぇ。
≪創業昭和23年(1948)ミックスジュース発祥の店≫
懐かしい看板につられて
思わず苦笑い。
果汁飲料品質表示基準で果汁100%以外の物は、ジュースと
名乗れないそうなんですけと、喫茶店の物は牛乳が
入っていてもジュースと名乗れるそうなんですねぇ。
リンゴ・桃・オレンジバナナに牛乳+氷の
ミックスジュースを注文。
懐かしい味です。
「 う っ ま ~ 」
「みっくちゅじゅーちゅ」の正式名称は、
『大阪生まれのフリフリみっくちゅじゅーちゅ』
関西の喫茶店の定番メニューの「ミックスジュース」を、
全国に広めようとTV番組の企画で商品化した、
ミックスジュースの缶・ペットボトル入りの
清涼飲料水のことなのです。
この商品なかなかお目に掛かりにくいのですが、
流石に発売元のサンガリアの地元
大阪住吉の自販機には
入ってました。
扇屋も歩けば自販機に巡り合います
たこ焼きの自販機もありましたなぁ
↧
October 12, 2018, 4:57 am
暑気あたりなどの夏の諸病に効くという是斎薬(定斎薬)。
雍州府志(1682)によれば、明の沈惟敬が豊臣秀吉公に処方を献じ、
それを賜った大坂の薬商定斎が造り始めました。
只同書が書かれた当時すでに近江国梅木の名物になっており、
是(定)斎和中散と称して数軒の家がこれを
商っていたと云います。
大坂・住吉の薬屋是斎屋は、寛永年間(1624~44)に近江国の
津国宗右衛門が住吉(紀州)街道沿いに面した地で
『和中散』を商ったのが起こりで、茶屋もとしても
有名で街道の旅人たちで賑わった
と、伝わっています。
今日は阪堺電車に揺られて北天下茶屋にやって来ました。
北天下茶屋から東に道なりに抜けると、聖天山の頂上に
立つ天下茶屋の聖天さんの下に出てきます。
鳥居を潜って石段を登ると聖天山正圓寺山門下に出ます。
天慶2年(939)創建の正圓寺は元禄年間(1688~1704)に
聖天山に移転したそうなんです。
元禄時代に造られた石段を登り山門を潜ると正面に、
本尊の歓喜双身天王を安置する本堂が
迎えてくれます。
散歩の安全を願って
一礼合掌して『なぁ~む~』
下山します。
正圓寺の参拝を終え、松虫通りを西に下り、住吉(紀州)街道の
岸里東にやって来ました。こちらから住吉街道を
南に少し下ると❔
右に天下茶屋公園があります。
この地には織豊時代から江戸時代にかけて、食傷の
薬を商いしていた是斎屋がありました。
寛政8年(1796)刊行の摂津名所図会に記された
『天下茶屋村是斎薬店』画です。(注・1)
是斎屋は寛永年間(1624~44)に近江国の津田宗右衛門が、
住吉街道に面したこの地で『和中散』という食傷薬を
幕末期に描かれた浪華百景石和板『天下茶屋ぜさい』
芳瀧(画)です。(注・2)
是斎屋は茶屋店としても有名で、街道を通る
旅人たちで大いににぎわったと
名所図会に記されています。
天下茶屋公園には四天王寺の末寺で、今は廃寺となった
阿倍寺の五重塔の礎石も保存されています。
この礎石は白鳳時代に彫られたもので、穴の中央に
舎利が納まる穴が設けられています。
天下茶屋公園の筋向いには安養寺さんがあります。
安養寺は浄土宗知恩院派一心寺の末寺の尼寺で、
境内には近松門左衛門の『心中天網島』の紙屋治兵衛の
妻の『おさん』の墓があります。
大坂天満の紙屋の主人治兵衛は、妻子ある身で遊女屋の
小春と馴染みになり、網島の大長寺で心中をします。
その小春が自害すると気付いたおさんは、「ここで小春を
助けなければ女の義理が立たない」と言う。
治兵衛という一人の男を互いに愛した、
女の連帯感なのか❔。。。
是斎屋から文楽に話変わっとるやないか❔
散歩の話をせんと何考えとんねん
注・1 早稲田大学図書館蔵
注・2 大阪府立中之島図書館蔵
から借用しました。
↧
↧
October 13, 2018, 6:53 am
天下茶屋の地名は、かつてこの地にあった茶屋に由来するのですが、
古代には「天神ノ森」と呼ばれる鬱蒼とした森が茂げり、鄙びた
土地でした。その森に湧く水の良さに千利休の師の
武野紹鴎が、森を切り開いて茶室を建て以来
『紹鴎の森』と呼ばれていました。
天正年間(1573~92)に、楠正行の十世孫である初代芽木小兵衛
光立が森の西側を開き、そこに茶屋を出しました。
住吉神社の参拝を終えた豊臣秀吉公が立ち寄り、芽木家の
湧水を汲んで千利休に茶を立てさせたところ、味の良さに
感激し芽木家に米三十俵の朱印を与えたことから
『天下茶屋』と呼ばれるようになりました。
天下茶屋村の是斎屋跡から住吉(紀州)街道を少し南に
下ると、左側に天神ノ森天満宮があります。
天神ノ森天満宮は、茶匠の武野紹鴎が室町期に茶室を
造り、風月を友に静かに余生を送っていた
所だと伝わっています。
天神ノ森天満宮は、応永年間(1394~1428)に京都・北野天
満宮の分霊を奉祀したのが始まりと伝えられています。
宮司さんに聞いてみたのですが
紹鴎の茶室跡は不明でした。
境内には豊臣秀吉公が淀君が懐妊の時に、安産祈願を
したと伝わる『子安石』が置かれています。
備前国の林源次郎が、父と兄の仇である当麻三郎衛門を
討ち本懐を遂げ、其の供養の宝塔が建てられています。
寛政8年(1796)刊行の摂津名所図会には、右下方から
左斜め下方に住吉街道が描かれ、左中程に
天神ノ森天満宮、右下に天下茶屋が、
左上方に聖天山正圓寺が
描かれています。(注)
天神ノ森天満宮から住吉街道を挟んで西側に
芽木家の天下茶屋がありました。
画像右端が住吉街道の歩道端で左奥、画像では
解り難いのですがクスノキの先の道路まで
芽木家の茶店の敷地だったようです。
昭和20年(1945)の大阪大空襲で戦火に遭うまで、5000㎡にも
及ぶ大きな小兵衛屋敷、現在は往時を物語る小さな土蔵と
石仏、樹齢350年のクスノキの大樹が残されただけ
となっています。
天下茶屋芽木家小兵衛屋敷跡を後にして、
再び住吉街道を南に下ります。
住吉街道を南に下り南海電鉄高野線のガードの手前、
岸里東2を左に曲がります。
岸里東2を左に曲がり阪堺電車の踏切を渡ると、
ここからは北畠顕家公が奉安されている
阿倍野神社参道になります。
お散歩は続くのですが、玉造を徘徊し過ぎのため
少々お疲れ気味なので、
(注) 摂津名所図会は早稲田大学図書館より借用しました。
↧
October 14, 2018, 4:45 am
日本の国に北と南に王朝が存在し、それぞれが正当性を
主張し合い、戦乱に明け暮れた南北朝時代。
混迷の時代に一人の若武者が、阿部野の
原野を駆け巡りました。
准三后北畠親房公の長男で正二位権大納言の北畠顕家公は、
建武新政下で公家でありながら『風林火山』の旗印を用い、
其の勇猛果敢な武者ぶりは敵方の足利軍からも
『花将軍』とまで讃えられました。
建武中興十五柱の顕家公を主祭神とする
阿部野神社界隈でのおさんぽです。
天下茶屋から住吉(紀州)街道を南に少しぐだり、岸里東2を
東に曲がり、阪堺電車踏切を渡ると目の前に
目指す阿部野神社があります。
延元3年(1338)、後醍醐天皇に仕えた北畠昭信公が軍旗
『風林火山』を立て、足利軍の高師直と激しく戦った
古戦場の地に、明治15年(1882)に阿部野
神社は創建されました。
鳥居を潜り境内に入ると直ぐ北畠顕家公の
銅像がお出迎えしてくれます。
21歳の若さで散った花将軍北畠顕家公を主祭神とする
阿部野神社本殿に『二礼二拍手一礼』して、
車用の参道出入り口を通って退出、
府立住吉高校校門前、
住吉高校から道を隔てた北側にあるグランドのフェンスに
何やら見慣れぬ高札擬きが架けられています。
此の地は古来より岸の姫松と云って、街道沿いや海岸沿いに
景観と防風のため松が植栽されていました。
江戸時代後期の寛政7年(1795)刊の『住吉名勝図会』や
同8年刊の『摂津名所図会』には、帝塚山に連なる
岸の姫松が描かれています。
画像の摂津名所図会画の上方に斜めに描かれている
住吉街道から、左上の帝塚山を眺めながら
人々は行き交ったようです。(注・1)
そのような光景を描いた浪華百景石和板
『岸の姫松』芳瀧(画)です。(注・2)
と、そのようなことが高札擬きに記されていました。
住吉高校から東に向かい熊野街道を走る阪堺電車路を
横切り、さらに東のあべの筋にむかいます。
あべの筋に出て少し北に向かうと右側に北畠公園があります。
北畠公園内には、
江戸時代の学者・並河誠所の提唱で、享保年間(1920頃)に
此の地に北畠顕家公の霊廟が建てられました。
太平記の一節に
よれば
『5月22日、和泉の境、阿部野にて討死し給ひければ、
相従ふ兵悉く腹切り庇を被って一人
不残失せにけり』
大阪府堺市浜寺石津中の石津川左岸の地で、
北畠顕家公は若干21歳の命を
落とされました。
今も地元の人たちの手で供養塔には線香の香りが・・・
注・1 摂津名所図会は早稲田大学図書館蔵
注・2 浪華百景石和板は大阪府立中之島図書館蔵
からの借用です。
↧
October 15, 2018, 12:05 am
昔話に、幽霊は死んだ者が成仏できず姿を現した
ものだと云われています。
古来より幽霊は生前の姿で現れることになっていたようですが❔
江戸時代になると納棺時の白装束を
まとい、下半身を朦朧とした姿で
表現されたものが多い。
京の天才絵師・丸山応挙(1733-1795)の
幽霊画の影響で、死に装束で腰から下が
細く足の無い美しい女性の姿が
描かれるようになったそうです。
最後の浮世絵師と呼ばれた
月岡芳年(1839-1892)が描いた『産女』
腰布は血にまみれ、抱いている赤子の細い
足が見える、もの悲しさが漂う幽霊画なのですが、
白いうなじから腰にかけてのしなり、
ぴったりとまとわりついた腰布、
変にエロティクな感じがします。
大阪平野にある大念仏寺には、この様な幽霊画が
十二幅も収蔵されているので、次回のおじさんぽ
平野に決定と資料調べをしていたら、
消防に救急車・警察官にパトカーまでが
扇屋の近所に集合しています。
何かいなと近所を徘徊すれば、
飛び降り自殺者が出たとの事Σ(・□・;)
自殺は様様な事情が複雑に絡み合って生じるのですが、
自殺が1件生じると、偶然もしくは業務上遭遇した人や、
対応に係った人、周辺社会に対して、
計り知れないほどの
心理的影響を及ぼします。
何があっても、どんなに嫌なことが有っても、
時間が解決してくれるのに、
死んだらお終いや
↧
October 16, 2018, 8:12 am
今日10月17日は旧暦の9月9日、『重陽の節句』なのです。
古代中国の書『荊楚歳時記』によれば、香りの強い
山椒の実を身に付けて高い所に登り、菊酒を
飲めば長寿になると記されています。
平安時代には山椒の実を頭に付けたり、菊酒を飲ん
だりという風習があったようで、現在も神社
仏閣では重陽祭が行われ菊花を供え
『延命長寿・無病息災』を
祈願し
菊酒を振舞うところが多いようです。
イメージ画像は借り物です。
高い所と言えば扇屋の頭に浮かぶのは『大阪アルプス五山』
生野の岡山(御勝山)、天王寺の茶臼山、阿倍野の聖天山、
住吉の茶臼山、築港の天保山。
この五山が大阪市街地アルプスと呼ばれる五山なのです。
が、
築港の天保山以外は全て墳丘墓、山の頂上に上がって
酒なんか飲んでたら埋葬者へんにち起すかも❔
化けて出られたらかなよって、天保山が
ええやろねぇ。
日本一低い山の頂上で菊酒を頂くことにしました。
ご近所さんと千里丘陵行く約束してんのに
ボケたでは通らんやろなぁ
しょうがないかぁ~
↧
↧
October 18, 2018, 9:05 am
大阪城の南に位置する玉造・真田山界隈は大坂の陣の
激戦地で、豊臣方の武将で名宰相と云われた
真田幸村が真田丸を築き、押し寄せる
徳川軍を撃破した所なのです。
今日は大阪メトロ鶴見緑地線の玉造にやって来ました。
玉造駅から玉造筋を少しばかり北上します。
玉造交差点から玉造筋をふた筋北上し左(西)に曲がると、
玉造筋の東側にはその昔、猫間川が南から北の大和川に
流入していました。伏見橋は猫間川に流入していた
井路に架けられていた橋なのです。
画像は江戸時代後期の玉造付近を流れる
猫間川を描いた図で、大阪府立中之島
図書館からの借り物です。
伏見橋跡から西にふた筋進みそこから北に向かうと、
道路を振り分けるようにしてクスノキが❔
❔
クスノキの根元には地元で『巳さん』と呼ばれる
白光天神社の祠が建立されています。
白へびさんなんでしょうかねぇ
白木で銅板葺の綺麗な祠なんですょ
『巳さんに二拍手一礼』
白光天神社からさらに北に向かうと正面に
玉造稲荷神社があります。
玉造稲荷神社は垂仁天皇18年(紀元前12年)の創建と
伝わり、崇峻天皇元年(588)に蘇我氏と物部氏の
争いで、聖徳太子が玉作岡で『我に勝を
与えるなら、この栗の白木の箸に
枝葉を生じさせ給え』と
祈願すると、
枝葉が生じ勝利を収めたと云います。
ほんまかいなぁ
境内には豊臣秀頼公と淀君を結ぶ胞衣(胎盤)塚大明神社が
あり、子供の夜泣きに霊験あらたかと云われています。
玉造の地名は、この一帯が古代の勾玉などを造っていた
玉作部の居住地であったことから名付けられたもので、
境内には創紀二千年を記念して難波・玉造資料館が
昭和61年(1986)に建てられました。
玉造稲荷の参拝を終え、本殿西側の車の通用門から退出し、
城西学園の塀沿いに北に向かい、
さらに城西学園の塀に沿って西に向かいます。
城西学園の北の通りを西に進むと突き当りに
越中井にでます。
この付近一帯は細川越中守忠興邸跡で、越中井は
邸内にあった井戸なのです。
越中井前の交差点を怪しげなる集団が通り過ぎていきます。
なんかいな❔と附いて行きたいのを我慢して
大坂城に背を向けてお散歩の再開です。
↧
October 20, 2018, 2:20 am
玉造稲荷神社は、古くから五幸稲荷大明神として崇敬者に
慕われ、江戸時代には『もといなり』と云われ、
伏見稲荷大社の分霊を祀らない
宇迦之御魂大神を
主祭神とする
稲荷神社なのです。
南に面した参道に建立された大鳥居を潜って境内に
その割には狭い幅の参道です❔
石段を登り鳥居を潜った正面に宇迦之御魂大神が
祀られている拝本殿があります。
社伝によれば垂仁天皇18年(B・C12)の創建と伝えられ、
崇峻天皇元年(588)に蘇我氏と物部氏の争いで聖徳
太子が戦勝祈願をし、戦勝後に観音堂を建立
したという伝承が残されています。
寛政8年(1795)に刊行された摂津名所図会の玉造稲荷神社
の鳥瞰図には、本社殿北に観音堂が描かれています。
また、玉造稲荷神社は大坂城三の丸に位置し、鎮守社として
豊臣家から篤い崇敬を受けていたと記し、西向きに
社殿が描かれています。(注・1)
画像の境内末社の所に観音堂が在ったようです。
現在の社殿は昭和20年(1945)の大阪大空襲で焼失した後、
昭和28年(1953)に南向きで再建されました。
上町台地から西に開けた大坂三郷の神社は、伊勢神宮を
遥拝するように建立されていたように思われます❔
摂津名所図会に描かれた鳥瞰図では、本社殿の東側に
急峻な断崖を利用して、舞台が設けられている
様子が描かれています。
舞台の設けられていた所が現在の難波
・玉造資料館の建物付近。
画像右端の側道を通って崖下に降りていきます。
こんな感じの舞台が設けられていました。(注・2)
幕末期に初代長谷川貞信が描いた錦絵に見る大阪の風景
『玉造稲荷神社舞台』です。
【画賛の読み下し】の訳
玉造稲荷神社は豊津稲荷とも呼ばれ、元は大阪城内に祀られて
いたと伝えられています。境内東には急峻な断崖となっていて、
江戸時代にはここに舞台が建てられ、信貴、葛城の眺望を楽しむ
ことが出来た。天保11年(1840)12月当時『生き地蔵』と呼ばれ
て、多くの人々の信仰を集めた河内国若江郡木戸村(現・八尾市
東本町)の融通念仏宗寺院清慶寺の楽山上人が、彼の融通念仏
勧進に1万人を超える人々が結縁下ことを記念して、翌年地蔵菩
薩と脇侍二体を本社に安置した。これによりさらに多くの人々が
参詣するようになった。と記しています。
舞台が設けられていた崖。
現在では民家が立っていますが、石段は
変わらず残されています。
この境内に残された中途半端な鳥居は、江戸時代から
玉造稲荷神社の表玄関であった西の参道に
設けられていたもので、平成7年
(1995)で崩壊したのを機に
現在地にこのような
姿で保存。
平成7年の阪神淡路大震災まで先ほどの鳥居は、
木立のアーチの位置、旧玉造稲荷神社の
参道正面に建立されていました。
昨日の玉造でおじさんぽに書き込むのを
忘れていました。
申し訳ありません。
(注・1)早稲田大学図書館蔵
(注・2) 大阪府立中之島図書館蔵
から借用しました。
↧
October 20, 2018, 6:26 pm
最大瞬間風速58.1mを観測し、今世紀最強と云われた
台風21号は関西圏に被害の爪痕を残してくれました。
今も倒木や折れた木の枝葉が散乱し、立ち入り禁止
区域が残る万博公園から、『花の丘が秋色一色』に
染まりましたょ、と便りが届けられました。
日本一低い天保山で菊酒をと計画していたのですが、
暇をもてあそぶご近所さん一行と大阪モノレール
服部駅にやって来ました。
こちらからモノレールに載って
たどり着いたのが
暇なお爺んお婆んがカメラ片手に来たのが万博公園。
樹林帯は倒木の関係で立ち入り禁止になっていますが、
『花の丘』はコスモスがお爺お婆一行を
笑顔で迎えてくれています。
こんなべっぴんさんから、
こんなべっぴんさんまで、
下から覗いても、
こんだけ近づいても痴漢と云われませんょ
これだけのお嬢さん覗きごたえがありましたょ
❔❔❔何してんねんやろ❔❔❔
こんなことを楽しんでいる昔のお嬢さんもいてはりました。
ええ時代になりましたなぁ~。
↧
October 21, 2018, 8:15 am
河岸の柳の行きずりに ふと見合わせる顔と顔
立ち止まり 懐かしいやら嬉しやら
青い月夜の十三夜
なんて唄がありましたねぇ~
十三夜の月は中秋の名月に次ぐ美しい月と言われ、
旧暦の9月13日(新暦の10月21日)今宵の
月が十三夜『後の名月』なんだそうです。
十三夜の夜は晴れることが多いようで、
『十三夜に曇り無し』
なんて言われていますねぇ~
『栗名月』とも『豆名月』とも言われる十三夜。
扇屋、今宵のおやつは落花生
中国産は怖いので
千葉県産
本当に綺麗な月が出ていますょ
御覧になりましたか❔
↧
↧
October 23, 2018, 8:15 am
大坂城の南に位置する玉造・真田山界隈は、豊臣秀吉公による
大坂築城に際して三の丸に組み込まれ、細川、宇喜多、
蜂須賀、前田家などの屋敷が置かれていました。
大坂の陣で真田幸村が出城のの真田丸を築き、
武士や強者が駆けた地なのです。
玉造稲荷神社から北に上り城星学園北側の
フェンスに添って西へ向かいます。
路の突き当りに小さくこんもりとした森があります。
ここは大阪市中央区森之宮にある越中井史跡で、
豊臣時代に細川忠興屋敷の台所が
在った所なのです。
豊臣秀吉公の死後、石田三成の策謀によって細川玉
(ガラシャ)が屋敷に火を放ち自害したと
云われている地なのです。
越中井から南に少し下った所にカトリック玉造教会があります。
大阪カテドラル聖マリア大聖堂は、大阪市中央区玉造に
あるカトリック玉造教会の大聖堂で、カトリック大阪
大司教区の司教座聖堂であることから、
『大阪カテドラル』と呼ばれています。
司教座聖堂に併設されている大司教館(大司教公邸)です。
大阪カテドラル聖マリア大聖堂から大坂女学院の
フェンスに沿って南に下り、
明治8年(1885)創業『明色化粧品』の
桃谷順天堂を右に見て、
南に下ると長堀通の空堀通の交差点に出てきます。
ここから正面の右の路地を斜めに下っていきます。
道が谷底になった所から南に曲がって、
出てきたのがどんどろ大師の前。
どんどろ大師は、大阪市天王寺区空堀町にある高野山
真言宗の仏教寺院で、善福寺といいます。
江戸時代に大坂の陣の戦死者を弔うために、高野山
岩本院の法資法道が創建したと伝わっています。
また善福寺が建っている地は、かって真田丸が
在った北の空堀だった場所なのです。
先ほどの画像で道が谷底と説明した所から善福寺の
建っている所までが、大坂城南の空堀で、
下1/3の所で画像が黒く掘られたように
描かれている所になります。
資料は広島市立中央図書館より借用しました。
どんどろ大師善福寺門前には、浄瑠璃『傾城阿波鳴門』に
登場するお弓と娘のお鶴の像が建てられています。
が、
なんでかよく解りません❔
どんどろ大師から上り坂になっています。
画像の矢印の下から上り坂になり、
矢印の位置にあるお寺が、
真田丸城内の一番北の端に位置する心眼寺です。
心眼寺は、大阪市天王寺区餌差町にある浄土宗の寺院で、
織豊時代の文禄年間(1593~96)頃に創建、大坂冬の
陣の後、取り壊され、元和8年(1622)に真田家の
先祖海野氏の助力により、真田幸村・大助の
供養のため再建されました。
本尊の阿弥陀如来像が安置される心眼寺の本堂です。
真田親子を供養する心眼寺境内です。
NHKの大河ドラマの影響で境内が今風に
整備されています。
参詣者が増えたんでしょうなぁ~
非常に罰当たりな心掛けのお散歩。
それではここらで
どなたさんも
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October 25, 2018, 8:36 pm
夏の草原に銀河は高く歌うよ
胸に手を当てて風を感じる
君の温もりは宇宙が燃えていた
遠い時代のなごり君は宇宙
百億年の歴史が・・・・・・
COSMOSから
なんて鼻歌を歌いながら
河川敷公園の『乙女の真心』なんて、お爺んが喜びそうな
花言葉のコスモス園にやって来た扇屋
(・∀・)ニヤニヤ顔で歩み寄り
下から眺めてはまた(・∀・)ニヤニヤ
『幸せいっぱい 胸いっぱい』
寄っては香りをクンクン
あれ~れぇ カメラ女子までが❔
朝っぱらから遊ぶか❔❔❔
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October 27, 2018, 6:26 am
佐奈田山三光宮(三光神社)は、元は姫山神社の境内末社で、
陸奥国宮城郡青麻の三光宮の分霊を勧請し、
中風除けの信仰を集めていました。
明治41年(1908)に姫山神社と三光宮が合祀され、
現社号の三光神社に改められました。
境内地は大坂冬の陣に際して、真田幸村が築いた真田丸の
故地と伝えられ、『真田の抜け穴』と称される横穴が遺る。
その前に昭和62年(1988)鹿角の兜を被り采配を振るう
真田幸村の銅像が建てられました。
大坂城三の丸空堀跡内のどんどろ大師を経て心眼寺参拝を
済ませ、心眼寺南隣の興徳寺に向かいます。
興徳寺は、大阪市天王寺区餌差町にある高野山真言宗の
仏教寺院で、天平年間(729~749)僧・行基の開創と
伝えられています。
本尊の薬師瑠璃光如来像が安置された本堂です。
境内にはどのような無理難題の願いも、融通して
聞いてくれる融通地蔵尊が安置されています。
一礼・チャリン・コン・コン・コン合掌『むにゃむにゃ』一礼。
興徳寺山門の筋向かいで明星高校のフェンス沿いに、
NHK大河ドラマ真田丸の巡礼の方のため、新しく
『真田丸顕彰碑』が建てられました。
顕彰碑を眺めて
本草学者木村兼葭堂の墓がある大応寺前を通って、
大応寺の南側の狭い路地を抜け真田山の
狭い路地を抜け、さらに人さん宅の玄関先を通って、
奥の隙間から陸軍墓地の境内に入ります。
ええかいなぁ~❔
地元の人は皆そうしてるんです
旧真田山陸軍墓地は、明治4年(1871)旧兵部省が設置した
最初の陸軍墓地で、近代日本の戦争と軍のありようを
現在に伝える貴重な歴史遺跡となっています。
陸軍墓地を東に抜ける真田山公園を北に進むと
真田の抜け穴の前に幸村の銅像が立っています。
『真田の抜け穴』は真田山古墳の横穴なのですが、
地元では未だに『大坂城に通じてんねん』と
皆さんが言い切ってくれます。
寛政8年(1796)に刊行された摂津名所図会にによれば、
真田山稲荷社(三光宮)は反正天皇時代の創建で、
武内宿禰の末裔が神職を務めている、
と記しています。
画像は早稲田大学図書館から借用しました。
幸村像の北側の石段を登ると正面に、天照大神、月読尊、
素戔嗚尊を奉安する本社殿があります。
中風にならんように
二礼二拍手一礼合掌『むにゃむにゃ』
幕末期に描かれた浪花百景石和板
『佐奈田山三光宮』芳瀧(画)です。
佐奈田山三光宮画を所蔵する大阪府中之島図書館の
解説では、古くから中風封じ、更にはその難を
逃れる効があるとして参詣する者が
絶えなかったと記しています。
参拝を終え北側の参道から退出し、長堀通を
JR玉造駅の方に向かいます。
長堀通を東に進むと今回のおさんぽの振り出し、
玉造交差点に出てきます。
こちらから少し東に行くとJR玉造駅に出ますが❔
玉造界隈のおじさんぽお付き合いの程
有難うございました。
本日はこれにて
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October 27, 2018, 10:01 pm
『一生に一度は伊勢参り』と、江戸時代に流行ったお蔭参り。
しかし、当時の旅は事件や事故並びにぼったくり等、
不安だらけの旅だったようです。
そんな不安を抱えながら難波の庶民が伊勢音頭を歌い、
陽気に旅立ったのが玉造の二軒茶屋からなのです。
安政2年(1855)に記された『浪華の賑わい』によれば、
大坂から暗越(くらがりごえ)奈良街道の出発点に
なっていた玉造二軒茶屋。(注・1)
街道を挟んで『つる屋』『庄屋(後のます屋)』の
二軒の茶屋がありました。
幕末期に描かれた浪花百景石和板『二軒茶屋や風景』
によれば、二軒茶屋は旅人の休息所で酒宴の場
として名所なほど繁盛していたようです。(注・1)
菅は不浄を清める働きがあると信じられ道中の安全を
願い、名物となっていた深江の菅笠を競って
買い求める旅人も多かったようです。
大阪メトロの玉造駅から長堀通を少し東に移動すると、
すぐそこにJR大阪環状線の玉造駅ガード下が
二軒茶屋・石橋旧跡の碑が、大阪市東成区
東小橋1に建ってします。
碑の東側(画像の右、横断歩道の上)を通る南北の道路は、
かって大坂城の東堀として利用されていた猫間川の
川跡で、ここには宝永8年(1177)に大坂で初めて
石橋の黒門橋が架けられていました。
天保9年(1838)刊の猫間川堀俊絵図です。(注・1)
画像右端街道を挟んで石橋の手前に
二軒茶屋が描かれています。
先ほどの二軒茶屋・石橋の碑から東の筋向い、ほぼ
此の地から暗越奈良街道の出発点で、二軒茶屋は
画像では解り難いのですが、信号の位置が先ほどの暗越
奈良街道の碑があった所、その手前に二軒茶屋は
在ったと思われます。
この地図は明治32年(1899)当時の陸軍測量部が
作成した玉造付近の地図です。
赤の矢印に二軒茶屋、緑の矢印が猫間川です。
ます屋は明治に入り廃業したのですが、つる屋は大正年間
(1912~1926)まで存続していたと云われています。(注・2)
長堀通のJR大阪環状線ガード下を潜って、
玉造商店街に戻って来ました。
こちらから
今日はJR線に乗って帰宅します。
玉造界隈おじさんぽ
長々とお付き合い有難う御座いました。
(注・1) 大阪府立中之島図書館
(注・2) 大阪市東成区役所HP
から借用しました。
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October 28, 2018, 11:34 pm
大黒天というとふっくら肥えた体に狩衣を着て、大黒頭巾と
呼ばれる大きな頭巾をかぶり、右手に打出の小槌を
持って、肩には大きな袋を担ぎ笑顔で二表の
米俵の上に乗っている姿を想像します。
そのルーツはというと、ヒンドゥー教のマハカーラが密教に
取り入れられ、日本には密教の伝来とともに
伝わって来ました。
密教の『大日経疏』によれば、大黒天は毘盧遮那仏の
化身とみなされ、胎蔵曼陀羅の最外院北辺の
ヒンドゥー教にルーツを持つ神が
あてがわれているそうです。
よく見ると容姿容貌の大黒天が、
あまり上等でない位置に
描かれています。
インドの僧院や中国の天台系寺院の食堂に、豊穣の神として
祀られていた大黒天が、天台教義を学ぶため留学を
していた最澄によって輸入され、日本神話の
大国主命と同一視されるに至りました。
大黒天の後ろ姿をよく見ると大黒頭巾が亀頭部で、二表の
米俵が睾丸、その姿は勃起した男性器そのもので、
比叡山延暦寺の大黒堂では、毎年定められた
日に朝・昼・晩とお粥のような柔らかい
餅米を懸ける『容餅供』という
秘儀が行われています。
大黒天のルーツであるインドでは、ココナッの実を割り
白濁した液を掛ける儀礼が行われています。
観ようによっては非常にエロティクな
儀礼なんですねぇ
そこで訊ねたのが
ここ
珍しく今日は近鉄南大阪線に乗って駒ヶ谷駅にやって来ました。
駒ヶ谷駅から南に下ること5分程で
大阪府羽曳野市大黒にある大黒寺にやって来ました。
大黒寺は白雉16年(665)役小角によって創建された寺で、
曹洞宗永平寺派に属する禅宗寺院なのです。
役小角が大黒天よりお告げを受けて、自ら桜の木に
彫刻したと伝わる大黒天が安置された本堂です。
観光寺でないので本堂は拝観できません
日本最古と云われ大黒天発祥の寺という大黒寺の
境内には七福神の石像が安置されていますが、
大黒天の石像だけが見当たりません。
なんでやねん!
別の場所に特別に安置されていました。
で、
後ろ姿を写そうと頑張ったのですが
『みしたれへん』
生垣で後ろに回ることが出来ません。
もっとエロい姿をお見せしたかったんですけど
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October 30, 2018, 9:39 pm
七福神と言えば頭に思い浮かぶのが、恵比寿、大黒天、福禄寿、
毘沙門天、寿老人、弁財天の七柱で構成された
福徳の神様グループ。
しかし、その昔はメンバー中の紅一点は
吉祥天女だったのです。
弁財天だけが後からの参加なのですねぇ~。
奈良時代まで女神と言えば、吉祥天女と云われる程人気が
高く芸能と豊穣神として多くの信仰を集めてしました。
また吉祥天はグループ内で唯一の若いイケメン
毘沙門天と結婚していましたが
お騒がせの美少女の弁財天が現れ、芸能関係者特有の
業でしょうか❔、吉祥天女の夫の毘沙門天と
デキてしまったのです。
そんな弁財天、人気を自分に惹き付ける付けるため
『 脱 い だ 』
今も芸能界にデビューする若い女性は脱ぎますねぇ
然も裸弁財天と言われる江の島弁財天は、禁断のヶ所まで
丸見えで、ムダ毛もなく、胸は『つるぺた』の
ロリータ体型なのです。
エロ爺い趣味や
吉祥天を女を追い出し、ついに念願の七福神の
センターを手に入れてしまいました。
神様仏様の世界も人間界と同じで
『ヤバ~イ、桃色系』の
エピソードがあるんですねぇ~。
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October 31, 2018, 8:07 am
福徳の神様グループを卒業した吉祥天、インド名を『マハーシュリン』と
云いい、徳叉迦を父に、鬼子母神を母に、夫の毘沙門天という
家族持ちの神様で、像ゃ絵画では立ち姿で天衣宝官を
身に着けて、左手に如意宝珠を奉げ、右の手は
施無畏印を施しています。
『金光明最勝王経』によれば、『あらゆる災難から逃れられ、
金銀財宝を授け、大富豪にしてくれる』と記しています。
一度は観たい絶世の美女・吉祥天に
JR奈良駅前からバスに乗って
やって来ました浄瑠璃寺さんへ
浄土寺は、京都府木津川市加茂にある真言律宗の寺院で、
『一度は観たい日本の秘仏5選』に選ばれた、
『吉祥天女像』が安置されています。
境内は浄土式庭園を形成し、東岸に薬師如来を安置する
三重塔、池を挟んだ西岸に阿弥陀如来を安置する
本堂(九体阿弥陀堂)があります。
本堂(国宝)は、寄棟造、本瓦葺、桁行11間、
梁間(柱間)4間の簡素な建物。
本尊の九体木造阿弥陀如来坐像は平安時代の
作品で、現存する九体仏は浄瑠璃寺
のみで国宝に指定されています。
画像は南山城の古寺より借用しました。
浄瑠璃寺秘仏の厨子入り木造吉祥天立像は、本尊の
九体阿弥陀如来坐像の左横に安置されていました。
寄木造風、像高90cmと小ぶりで色彩像の吉祥天は、
蓮華座に直立し右腕を下げ与願印を取り、
左肘を曲げ肩の位置で宝珠を奉持する
ポーズをとっています。
浄瑠璃寺の吉祥天は『大吉祥天女念誦法』の
『身色白にして十五歳の女の如く』を
表現したものでそうです。
画像は南山城の古寺より借用しました。
(10月1日~11月30日まで公開されていました)
生きていくために必要なもの、それは『お金』
お金が全てではないけれど、生きている間は
恵まれていたいのが本音
吉祥天に願いを込めて
オン・マカシリエイ・ソワカ
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