西 求 塚 古 墳
「三国志」の魏書・東夷伝・倭人条いわゆる「魏志倭人伝」による
と、2世紀末ないし3世紀初めごろの日本列島には、30余国ほど
の小国連合が形成され独自の文化を持っていたようです。
邪馬台国連合の卑弥呼の没年に続く3世紀の中ごろに、北部九
州から瀬戸内・畿内中央部に至る広い範囲に、大和を中心とす
る初期ヤマト王権と呼ばれる広域の政治連合が成立します。
ヤマト王権が倭の統一政権として確立していく中で、3世紀中ご
ろまで土盛りした方形や円形の墳丘墓が、ヤマト王権が各地の
豪族に許可した形式の前方後円墳に祭式が変わっていきます。
古墳時代前期の畿内古墳と古墳群を記した図です。
( 白 ) 図、左の1~5の古墳を訪ねました。
古 墳 の 形 式 で す。
西摂(阪神間)の古墳墓築造年代表です。
今回訪れた西求塚古墳は阪神電鉄西灘駅の南東に位置します。
西求塚古墳の航空写真です。
3世紀後半に築造された西求塚古墳は神戸市灘区都通3丁目
に位置する前方後方の3段墳墓です。
墳丘測量図及復元案です。 (神戸市教育委員会2004)
(外表施設) 埴輪なし、葺石あり。
(埋葬施設) 後方部中央に竪穴式石室(結晶片岩)
(副葬品) 三角縁神獣鏡7面、画文帯神獣鏡2面、
獣帯鏡2面、画像鏡1面、鉄刀、鉄鏃、
鉄槍、鉄斧
(その他) 儀礼に使われた鼓形器台や山陰系の壺型
土器が出土しています。
出土した副葬品の鏡です。
前方後円墳の形式で復元し公園化されてしまった西求塚古墳です。
写真は前方部の左側から後方部の風景です。
六甲山南麓の扇状地に築かれたバチ状の前方部を持つ前方
後方墳ですが、文禄5年(1596)の伏見地震によって墳丘各所と
石室が崩壊しています。
この地域は、臨海部に点々と前期の古墳が築かれており、海
上交通を意識した占地が特徴であるとともに、中国製の三角縁
神獣鏡を持つ古墳が目立つ地域です。
ヤマト王権の生命線である瀬戸内海を考える上での重要な位
置を占めています。
公園化された前方部です。
公園化された後方部です。
今日もお付き合いありがとうございました。
次回は処女塚・東求塚を訪問します。