織豊時代から江戸時代にかけて大坂の城下には12の堀川がありました。
堀川は天下の台所と呼ばれるほど大坂の経済を支え、『雑候場の魚市』
『永代濱の干鰯市』など堀川の街ならではの繁栄を見せてきました。
長堀川は江戸時代に開削された運河で、東横堀川から
分流し木津川へと一直線に流れ込んでいました。
その長堀川、西横堀川より西を西長堀川と呼び、両岸には
材木商が集まる木材の集積地となっていました。
太閤さんの大坂築城時に資材置き場となっていた『すなば』。
現在の新町南公園から長堀通西大橋
交差点を西に向かいます。
長堀通となにわ筋が交わる西大橋交差点から西に
少し歩くと、旧問屋橋の親柱が橋の記念
碑として残されています。
ここに川が流れていた記念なんですねぇ。
寛政8年(1796)に刊行された摂津名所図会には、問屋橋跡から
西の西長堀川には、『関西土佐及日向より諸材をここに
積上せて、朝の市に数千金をあきなう也』と記し
西長堀川の両岸には木材商が
犇めき合っていた様子が
記されています。(注・1)
幕末期に描かれた浪花百景石板版『長堀財木市』芳瀧(画)です。(注・2)
大坂夏の陣の後、大坂は復興のため多くの
木材が必要となりました。
長堀川が開削される前は立売堀川で、土佐藩申請の材木市が
開かれていましたが、長堀川開削後土佐藩が西長堀川に
藩邸と蔵屋敷を構えたため、西長堀川に材木市が移り
年中材木市が開かれるようになりました。
昭和10年(1935)頃の西長堀川材木浜の画像です。
昭和30年(1955)頃の鰹座橋と新鰹座橋の画像です。(注・3)
現在の長堀通(旧西長堀川)です。
土佐藩の輸送船による材木や海産物の陸揚げにより、
西長堀川にできた市は『浜』として賑い、
繁栄の道を歩みましたが、
時代の変化と共に木材浜も縮小され、さらに市場が大阪南港に
移され、長堀川の水質悪化が原因で昭和48年(1973)に
埋め立てられ、その姿を地上から消すことになりました。
現在の鰹座橋の風景です。
昭和の初めまで付近一帯に材木商が集まっていました。
鰹座橋から西の玉造橋間の両岸一帯に、
土佐藩邸や蔵屋敷が並んでたんですねぇ。
ここ坂本龍馬も歩いたかも❔
Coffee店で一服
蔵屋敷跡に向かいます。
(注・1) 早稲田大学図書館所蔵
(注・2) 大阪府立中之島図書館所蔵
(注・3) Web画像ファイル所蔵