少子高齢社会に雇用不足、その上に財政悪化など構造的な
課題が深刻化し、男女間、地域間、産業間などに発生した
格差は深まれど、構造的問題に関する議論を先送りし、
既得権益を守ることに心血を注ぐ大阪人に
唯々悲観する扇屋です ( ;∀;)
が、
その昔、この様な人物が大阪にもいました。
江戸時代後期の天保4年(1833)全国的な天候不順や
冷害・暴風により各地で食料が不足し、30万以上の
人々が餓死した天保の大飢饉が起こりました。
(コトババンクから借用)
大坂も例外でなく飢饉の影響を受け、大規模な米不
足に陥っていましたが、大坂の役人は新たに
就任する将軍家の機嫌取りのため、大坂
市中の米を江戸に廻送してしまいます。
また、大坂の豪商たちが米を買い占めたため、
庶民は米を得ることが出来なくなりました。
豪商を撃つべしと立ち上がった人物が
この振る舞いに、大坂町奉行所の元与力で陽明学者の
大塩平八郎が、幕府を相手に反乱を
仕掛けることになりました。
(Wikipediaから借用)
「茨田郡士が駆け抜ける大塩平八郎の乱」
(大阪府門真市立歴史資料館)によれば、
天保8年(1837)2月19日に、大飢饉に苦しむ民衆の
救済と腐敗した幕政の改革を訴え、門弟や
農民約300名を率いて挙兵するも、
わずか半日で鎮圧されたうえ、事件後40日で
探索方に包囲され、大塩平八郎の乱は
自決という結末で幕を閉じました。
大塩平八郎が『 救民 』を掲げ蜂起した
天満の地でおじさんぽです。
明日から (*_*;