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文楽の旅  四ツ橋文楽座

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      三代目植村文楽軒は、人形浄瑠璃の座を松島新地から御霊
      神社境内に移し、初めて文楽座と命名します。

      御霊文楽座が全盛を誇る中、他の人形浄瑠璃の座は次々と衰
      退をしていきます。

      唯一残った御霊文楽座がこれ以降、人形浄瑠璃を指して『文楽』
      と呼ばれるようになりました。

      明治42年(1909)に座本が松竹に変わり繁栄を続けるのですが、
      昭和4年(1926)に御霊文楽座は火災で焼失のため、道頓堀の
      弁天座で興行を続けることになりました。

      昭和5年(1927)に松竹は、四ツ橋近辺の佐野屋橋南詰にあった
      旧近松座を買収し、その跡地に四ツ橋文楽座を再建します。

      新劇場は近代的な洋風建築で客席はすべて椅子席、収容数は
      御霊文楽座の全盛期を想定し850席とされました。

      しかしこの劇場は、昭和20年(1955)3月の大阪大空襲で爆撃を
      受け焼失、昭和31年豊竹座の跡地に道頓堀文楽座が開場する
      まで、10年間バラック建ての劇場で興行を続けることになります。

イメージ 1

寛政8年(1796)刊行の摂津名所図会
四ツ橋の絵です。(早稲田大学図書館蔵)

     図は南北が上に描かれていて左右に描かれている川が長堀川、
左上に描かれている橋が佐野屋橋です。

イメージ 2

昭和30年代の終わりごろの四ツ橋です。
東西に流れているのが長堀川、
南北に流れているのが西横堀川です。

中央のビルが旧大阪電気科学館です。

イメージ 3

現在の心斎橋付近の地図です。
緑のマス目が四ツ橋、黒のマス目が四ツ橋文楽座跡地です。

イメージ 4

地下鉄御堂筋線の心斎橋から新橋出口でると
新橋交差点北詰に出ます。

昔はここに長堀川が流れていました。
橋の代わりの横断歩道を渡って西(右)に向かいます。

イメージ 5

最近は町中をチャリンコで闊歩するお方が増えています。

イメージ 6

新橋交差点から西へ一筋。
左に見える大丸の駐車場が四ツ橋文楽座の跡地です。

イメージ 7

昭和5年(1927)に旧近松座の跡地に建てられた
四ツ橋文楽座です。

洋風建築で全席椅子席の劇場でした。

イメージ 8

四ツ橋文楽座の招きです。

昭和20年(1945)の大阪大空襲で爆撃を受け
完全に消失してしまいました。

イメージ 9

四ツ橋文楽座の跡地は現在大丸の駐車場ビルが建っています。

イメージ 10

昭和31年(1956)に道頓堀弁天座跡地に
建てられた文楽座(朝日座)です。

  御霊文楽座が焼失後の昭和4年(1925)に四ツ橋文楽座と
  して再生したのですが、昭和20年(1955)にまたも戦争被害
で焼失してしまいます。

10年後の昭和31年(1956)に道頓堀弁天座跡地に
文楽座(朝日座)が建てられるまで、
文楽興行は各所を放浪することになりました。

イメージ 11

昭和59年(1984)千日前に落成した国立文楽劇場です。

昭和22年(1948)座本の松竹と待遇問題で文楽界は、
会社派の「文楽因会」と組合側の「文楽三和会」に分裂。

こうした内紛もあって大戦後は興行の低迷が続き、
昭和38年(1963)に松竹は文楽界から撤退する
ことになります。

新たに大阪府・大阪市を主体に、文科省・NHKの
後援を受けた財団法人文楽協会が発足し、
文楽協会は再統一され再出発をすることになりました。


イメージ 12

平成15年(2003)無形文化遺産に登録され、平成26年(2014)
に橋下大阪市長の文楽協会補助金問題で、文楽協会も
必死で興行に励み、20年ぶりに国立文楽劇場開場以来の
観客動員になりました。


イメージ 13


伝統に胡坐をかかずはげまなあかんゎ。


イメージ 14


ここまで来たんやから

新町から靭廻りでいのかなぁ~。





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