天下茶屋の地名は、かつてこの地にあった茶屋に由来するのですが、
古代には「天神ノ森」と呼ばれる鬱蒼とした森が茂げり、鄙びた
土地でした。その森に湧く水の良さに千利休の師の
武野紹鴎が、森を切り開いて茶室を建て以来
『紹鴎の森』と呼ばれていました。
天正年間(1573~92)に、楠正行の十世孫である初代芽木小兵衛
光立が森の西側を開き、そこに茶屋を出しました。
住吉神社の参拝を終えた豊臣秀吉公が立ち寄り、芽木家の
湧水を汲んで千利休に茶を立てさせたところ、味の良さに
感激し芽木家に米三十俵の朱印を与えたことから
『天下茶屋』と呼ばれるようになりました。
天下茶屋村の是斎屋跡から住吉(紀州)街道を少し南に
下ると、左側に天神ノ森天満宮があります。
天神ノ森天満宮は、茶匠の武野紹鴎が室町期に茶室を
造り、風月を友に静かに余生を送っていた
所だと伝わっています。
天神ノ森天満宮は、応永年間(1394~1428)に京都・北野天
満宮の分霊を奉祀したのが始まりと伝えられています。
宮司さんに聞いてみたのですが
紹鴎の茶室跡は不明でした。
境内には豊臣秀吉公が淀君が懐妊の時に、安産祈願を
したと伝わる『子安石』が置かれています。
また神社参道入り口には![]()
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備前国の林源次郎が、父と兄の仇である当麻三郎衛門を
討ち本懐を遂げ、其の供養の宝塔が建てられています。
寛政8年(1796)刊行の摂津名所図会には、右下方から
左斜め下方に住吉街道が描かれ、左中程に
天神ノ森天満宮、右下に天下茶屋が、
左上方に聖天山正圓寺が
描かれています。(注)
天神ノ森天満宮から住吉街道を挟んで西側に
芽木家の天下茶屋がありました。
画像右端が住吉街道の歩道端で左奥、画像では
解り難いのですがクスノキの先の道路まで
芽木家の茶店の敷地だったようです。
昭和20年(1945)の大阪大空襲で戦火に遭うまで、5000㎡にも
及ぶ大きな小兵衛屋敷、現在は往時を物語る小さな土蔵と
石仏、樹齢350年のクスノキの大樹が残されただけ
となっています。
天下茶屋芽木家小兵衛屋敷跡を後にして、
再び住吉街道を南に下ります。
住吉街道を南に下り南海電鉄高野線のガードの手前、
岸里東2を左に曲がります。
岸里東2を左に曲がり阪堺電車の踏切を渡ると、
ここからは北畠顕家公が奉安されている
阿倍野神社参道になります。
お散歩は続くのですが、玉造を徘徊し過ぎのため
少々お疲れ気味なので、
(注) 摂津名所図会は早稲田大学図書館より借用しました。