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Channel: 浪花のおじさんぽ (^^♪
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『風林火山』の花将軍北畠顕家

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日本の国に北と南に王朝が存在し、それぞれが正当性を
主張し合い、戦乱に明け暮れた南北朝時代。

混迷の時代に一人の若武者が、阿部野の
原野を駆け巡りました。

准三后北畠親房公の長男で正二位権大納言の北畠顕家公は、
建武新政下で公家でありながら『風林火山』の旗印を用い、
其の勇猛果敢な武者ぶりは敵方の足利軍からも
『花将軍』とまで讃えられました。

建武中興十五柱の顕家公を主祭神とする
阿部野神社界隈でのおさんぽです。

イメージ 1

天下茶屋から住吉(紀州)街道を南に少しぐだり、岸里東2を
東に曲がり、阪堺電車踏切を渡ると目の前に
目指す阿部野神社があります。

イメージ 2

延元3年(1338)、後醍醐天皇に仕えた北畠昭信公が軍旗
『風林火山』を立て、足利軍の高師直と激しく戦った
古戦場の地に、明治15年(1882)に阿部野
神社は創建されました。

イメージ 3

鳥居を潜り境内に入ると直ぐ北畠顕家公の
銅像がお出迎えしてくれます。

イメージ 4

顕家公の銅像に一礼して本殿に

イメージ 5

21歳の若さで散った花将軍北畠顕家公を主祭神とする
阿部野神社本殿に『二礼二拍手一礼』して、

イメージ 6

車用の参道出入り口を通って退出、

北畠の住宅地を巡ってたどり着いたのが

イメージ 7

府立住吉高校校門前、

イメージ 8

住吉高校から道を隔てた北側にあるグランドのフェンスに
何やら見慣れぬ高札擬きが架けられています。

イメージ 9

此の地は古来より岸の姫松と云って、街道沿いや海岸沿いに
景観と防風のため松が植栽されていました。

江戸時代後期の寛政7年(1795)刊の『住吉名勝図会』や
同8年刊の『摂津名所図会』には、帝塚山に連なる
岸の姫松が描かれています。

画像の摂津名所図会画の上方に斜めに描かれている
住吉街道から、左上の帝塚山を眺めながら
人々は行き交ったようです。(注・1)

イメージ 10

そのような光景を描いた浪華百景石和板
『岸の姫松』芳瀧(画)です。(注・2)

イメージ 11

と、そのようなことが高札擬きに記されていました。

イメージ 12

住吉高校から東に向かい熊野街道を走る阪堺電車路を
横切り、さらに東のあべの筋にむかいます。

イメージ 13

あべの筋に出て少し北に向かうと右側に北畠公園があります。

北畠公園内には、

イメージ 14

江戸時代の学者・並河誠所の提唱で、享保年間(1920頃)に
此の地に北畠顕家公の霊廟が建てられました。


太平記の一節によれば

『5月22日、和泉の境、阿部野にて討死し給ひければ、
相従ふ兵悉く腹切り庇を被って一人
不残失せにけり』

と、記された地が

イメージ 15

大阪府堺市浜寺石津中の石津川左岸の地で、
北畠顕家公は若干21歳の命を
落とされました。


今も地元の人たちの手で供養塔には線香の香りが・・・



イメージ 16




注・1 摂津名所図会は早稲田大学図書館蔵
注・2 浪華百景石和板は大阪府立中之島図書館蔵
からの借用です。

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