忘れてました ;∀;
大阪の『おもろい寺』と称される全興寺、平野商店街に面した境内入り口を演芸小屋に喩えて今いました。が、きちんとした山門を紹介するのを忘れていました。それと、全興寺の西側の通りに面して山門があります。其の山門の南側には❔駄菓子屋のような佇まいの『おも路地』があります。みちくさ学校と言って学校帰りも子供や、勤め帰りの人達が気軽に立ち寄れる施設で、定期的に各種講座が開かれています。また、だがしや広場と言って...
View Article新世界々隈でおじさんぽ
大正から昭和にかけて娯楽の聖地として賑った新世界。付近の『てんのうじ村』には日本全国から芸人たちが集住し、昭和20年~30年代には300人以上もの芸人が暮らしていたそうです。そんなてんのうじ村の記念碑のある山王1から、あびこ筋を西へ山王交差点まで戻り南を眺め『あ~この商店街の向こうは飛田やなぁ』と独り言をつぶやきながら、山王交差点の北側に向かって正面のJR線の地下道を潜ってジャンジャン横丁へ地下道を...
View Articleみっくちゅじゅーちゅ
『みっくちゅじゅーちゅ』って何んかいなぁ❔関西圏以外の方はご存じないミックスジュースは、大阪・新世界ジャンジャン横丁の『千成屋珈琲店』が発祥とされています。先日ジャンジャン横丁を通って気になる看板のお店を目にしました。「千成屋珈琲」さん、平成28年(2016)に閉店したと聞いていたのですが、再開しはったんですねぇ。≪創業昭和23年(1948)ミックスジュース発祥の店≫懐かしい看板につられて思わず苦笑...
View Article天下茶屋の是斎和中散
暑気あたりなどの夏の諸病に効くという是斎薬(定斎薬)。雍州府志(1682)によれば、明の沈惟敬が豊臣秀吉公に処方を献じ、それを賜った大坂の薬商定斎が造り始めました。只同書が書かれた当時すでに近江国梅木の名物になっており、是(定)斎和中散と称して数軒の家がこれを商っていたと云います。大坂・住吉の薬屋是斎屋は、寛永年間(1624~44)に近江国の津国宗右衛門が住吉(紀州)街道沿いに面した地で『和中散』を...
View Article天神ノ森と天下茶屋
天下茶屋の地名は、かつてこの地にあった茶屋に由来するのですが、古代には「天神ノ森」と呼ばれる鬱蒼とした森が茂げり、鄙びた土地でした。その森に湧く水の良さに千利休の師の武野紹鴎が、森を切り開いて茶室を建て以来『紹鴎の森』と呼ばれていました。天正年間(1573~92)に、楠正行の十世孫である初代芽木小兵衛光立が森の西側を開き、そこに茶屋を出しました。住吉神社の参拝を終えた豊臣秀吉公が立ち寄り、芽木家の湧...
View Article『風林火山』の花将軍北畠顕家
日本の国に北と南に王朝が存在し、それぞれが正当性を主張し合い、戦乱に明け暮れた南北朝時代。混迷の時代に一人の若武者が、阿部野の原野を駆け巡りました。准三后北畠親房公の長男で正二位権大納言の北畠顕家公は、建武新政下で公家でありながら『風林火山』の旗印を用い、其の勇猛果敢な武者ぶりは敵方の足利軍からも『花将軍』とまで讃えられました。建武中興十五柱の顕家公を主祭神とする阿部野神社界隈でのおさんぽです。天下...
View Article嫌なもん見てもた( ;∀;)
昔話に、幽霊は死んだ者が成仏できず姿を現したものだと云われています。古来より幽霊は生前の姿で現れることになっていたようですが❔江戸時代になると納棺時の白装束をまとい、下半身を朦朧とした姿で表現されたものが多い。京の天才絵師・丸山応挙(1733-1795)の幽霊画の影響で、死に装束で腰から下が細く足の無い美しい女性の姿が描かれるようになったそうです。最後の浮世絵師と呼ばれた月岡芳年(1839-1892...
View Article9月9日は❔
今日10月17日は旧暦の9月9日、『重陽の節句』なのです。古代中国の書『荊楚歳時記』によれば、香りの強い山椒の実を身に付けて高い所に登り、菊酒を飲めば長寿になると記されています。平安時代には山椒の実を頭に付けたり、菊酒を飲んだりという風習があったようで、現在も神社仏閣では重陽祭が行われ菊花を供え『延命長寿・無病息災』を祈願し菊酒を振舞うところが多いようです。イメージ画像は借り物です。高い所と言えば扇...
View Article玉造でおじさんぽ
大阪城の南に位置する玉造・真田山界隈は大坂の陣の激戦地で、豊臣方の武将で名宰相と云われた真田幸村が真田丸を築き、押し寄せる徳川軍を撃破した所なのです。今日は大阪メトロ鶴見緑地線の玉造にやって来ました。玉造駅から玉造筋を少しばかり北上します。玉造交差点から玉造筋をふた筋北上し左(西)に曲がると、南東角に伏見橋跡の石碑が玉造筋の東側にはその昔、猫間川が南から北の大和川に流入していました。伏見橋は猫間川に...
View Article玉造でおじさんぽの追記です
玉造稲荷神社は、古くから五幸稲荷大明神として崇敬者に慕われ、江戸時代には『もといなり』と云われ、伏見稲荷大社の分霊を祀らない宇迦之御魂大神を主祭神とする稲荷神社なのです。南に面した参道に建立された大鳥居を潜って境内にその割には狭い幅の参道です❔石段を登り鳥居を潜った正面に宇迦之御魂大神が祀られている拝本殿があります。社伝によれば垂仁天皇18年(B・C12)の創建と伝えられ、崇峻天皇元年(588)に蘇...
View Article秋色そよぐ
最大瞬間風速58.1mを観測し、今世紀最強と云われた台風21号は関西圏に被害の爪痕を残してくれました。今も倒木や折れた木の枝葉が散乱し、立ち入り禁止区域が残る万博公園から、『花の丘が秋色一色』に染まりましたょ、と便りが届けられました。日本一低い天保山で菊酒をと計画していたのですが、暇をもてあそぶご近所さん一行と大阪モノレール服部駅にやって来ました。こちらからモノレールに載ってたどり着いたのが暇なお爺...
View Article玉造界隈でおじさんぽ 其の弐
大坂城の南に位置する玉造・真田山界隈は、豊臣秀吉公による大坂築城に際して三の丸に組み込まれ、細川、宇喜多、蜂須賀、前田家などの屋敷が置かれていました。大坂の陣で真田幸村が出城のの真田丸を築き、武士や強者が駆けた地なのです。玉造稲荷神社から北に上り城星学園北側のフェンスに添って西へ向かいます。路の突き当りに小さくこんもりとした森があります。ここは大阪市中央区森之宮にある越中井史跡で、豊臣時代に細川忠興...
View Article真田丸跡碑から真田の抜け穴
佐奈田山三光宮(三光神社)は、元は姫山神社の境内末社で、陸奥国宮城郡青麻の三光宮の分霊を勧請し、中風除けの信仰を集めていました。明治41年(1908)に姫山神社と三光宮が合祀され、現社号の三光神社に改められました。境内地は大坂冬の陣に際して、真田幸村が築いた真田丸の故地と伝えられ、『真田の抜け穴』と称される横穴が遺る。その前に昭和62年(1988)鹿角の兜を被り采配を振るう真田幸村の銅像が建てられま...
View Article玉造・二軒茶屋跡でおじさんぽ
『一生に一度は伊勢参り』と、江戸時代に流行ったお蔭参り。しかし、当時の旅は事件や事故並びにぼったくり等、不安だらけの旅だったようです。そんな不安を抱えながら難波の庶民が伊勢音頭を歌い、陽気に旅立ったのが玉造の二軒茶屋からなのです。安政2年(1855)に記された『浪華の賑わい』によれば、大坂から暗越(くらがりごえ)奈良街道の出発点になっていた玉造二軒茶屋。(注・1)街道を挟んで『つる屋』『庄屋(後のま...
View Articleエロいやろ~(^^♪
大黒天というとふっくら肥えた体に狩衣を着て、大黒頭巾と呼ばれる大きな頭巾をかぶり、右手に打出の小槌を持って、肩には大きな袋を担ぎ笑顔で二表の米俵の上に乗っている姿を想像します。そのルーツはというと、ヒンドゥー教のマハカーラが密教に取り入れられ、日本には密教の伝来とともに伝わって来ました。密教の『大日経疏』によれば、大黒天は毘盧遮那仏の化身とみなされ、胎蔵曼陀羅の最外院北辺のヒンドゥー教にルーツを持つ...
View Articleつるぺたやんか ( ;∀;)
七福神と言えば頭に思い浮かぶのが、恵比寿、大黒天、福禄寿、毘沙門天、寿老人、弁財天の七柱で構成された福徳の神様グループ。しかし、その昔はメンバー中の紅一点は吉祥天女だったのです。...
View Article一度は逢いたい絶世の美女に (^^♪
福徳の神様グループを卒業した吉祥天、インド名を『マハーシュリン』と云いい、徳叉迦を父に、鬼子母神を母に、夫の毘沙門天という家族持ちの神様で、像ゃ絵画では立ち姿で天衣宝官を身に着けて、左手に如意宝珠を奉げ、右の手は施無畏印を施しています。『金光明最勝王経』によれば、『あらゆる災難から逃れられ、金銀財宝を授け、大富豪にしてくれる』と記しています。一度は観たい絶世の美女・吉祥天に逢いに南山城へJR奈良駅前...
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