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玉造でおじさんぽの追記です

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玉造稲荷神社は、古くから五幸稲荷大明神として崇敬者に
慕われ、江戸時代には『もといなり』と云われ、
伏見稲荷大社の分霊を祀らない
宇迦之御魂大神を
主祭神とする

稲荷神社なのです。

イメージ 1

南に面した参道に建立された大鳥居を潜って境内に

その割には狭い幅の参道です❔

イメージ 2

石段を登り鳥居を潜った正面に宇迦之御魂大神が
祀られている拝本殿があります。

社伝によれば垂仁天皇18年(B・C12)の創建と伝えられ、
崇峻天皇元年(588)に蘇我氏と物部氏の争いで聖徳
太子が戦勝祈願をし、戦勝後に観音堂を建立
したという伝承が残されています。

イメージ 3

寛政8年(1795)に刊行された摂津名所図会の玉造稲荷神社
の鳥瞰図には、本社殿北に観音堂が描かれています。

また、玉造稲荷神社は大坂城三の丸に位置し、鎮守社として
豊臣家から篤い崇敬を受けていたと記し、西向きに
社殿が描かれています。(注・1)

イメージ 6

画像の境内末社の所に観音堂が在ったようです。

イメージ 4

現在の社殿は昭和20年(1945)の大阪大空襲で焼失した後、
昭和28年(1953)に南向きで再建されました。

上町台地から西に開けた大坂三郷の神社は、伊勢神宮を
遥拝するように建立されていたように思われます❔

イメージ 5

摂津名所図会に描かれた鳥瞰図では、本社殿の東側に
急峻な断崖を利用して、舞台が設けられている
様子が描かれています。

イメージ 7

舞台の設けられていた所が現在の難波
・玉造資料館の建物付近。

画像右端の側道を通って崖下に降りていきます。

イメージ 8

こんな感じの舞台が設けられていました。(注・2)

幕末期に初代長谷川貞信が描いた錦絵に見る大阪の風景
『玉造稲荷神社舞台』です。

【画賛の読み下し】の訳

玉造稲荷神社は豊津稲荷とも呼ばれ、元は大阪城内に祀られて
いたと伝えられています。境内東には急峻な断崖となっていて、
江戸時代にはここに舞台が建てられ、信貴、葛城の眺望を楽しむ
ことが出来た。天保11年(1840)12月当時『生き地蔵』と呼ばれ
て、多くの人々の信仰を集めた河内国若江郡木戸村(現・八尾市
東本町)の融通念仏宗寺院清慶寺の楽山上人が、彼の融通念仏
勧進に1万人を超える人々が結縁下ことを記念して、翌年地蔵菩
薩と脇侍二体を本社に安置した。これによりさらに多くの人々が
参詣するようになった。と記しています。


イメージ 9

舞台が設けられていた崖。

現在では民家が立っていますが、石段は
変わらず残されています。

イメージ 10

この境内に残された中途半端な鳥居は、江戸時代から
玉造稲荷神社の表玄関であった西の参道に
設けられていたもので、平成7年
(1995)で崩壊したのを機に
現在地にこのような
姿で保存。

イメージ 11

平成7年の阪神淡路大震災まで先ほどの鳥居は、
木立のアーチの位置、旧玉造稲荷神社の
参道正面に建立されていました。


イメージ 12


昨日の玉造でおじさんぽに書き込むのを
忘れていました。


申し訳ありません。



(注・1)早稲田大学図書館蔵
(注・2) 大阪府立中之島図書館蔵
から借用しました。






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