大阪城の南に位置する玉造・真田山界隈は大坂の陣の
激戦地で、豊臣方の武将で名宰相と云われた
真田幸村が真田丸を築き、押し寄せる
徳川軍を撃破した所なのです。
今日は大阪メトロ鶴見緑地線の玉造にやって来ました。
玉造駅から玉造筋を少しばかり北上します。
玉造交差点から玉造筋をふた筋北上し左(西)に曲がると、
南東角に伏見橋跡の石碑が![]()
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玉造筋の東側にはその昔、猫間川が南から北の大和川に
流入していました。伏見橋は猫間川に流入していた
井路に架けられていた橋なのです。
画像は江戸時代後期の玉造付近を流れる
猫間川を描いた図で、大阪府立中之島
図書館からの借り物です。
伏見橋跡から西にふた筋進みそこから北に向かうと、
道路を振り分けるようにしてクスノキが❔
❔

クスノキの根元には地元で『巳さん』と呼ばれる
白光天神社の祠が建立されています。
白へびさんなんでしょうかねぇ![]()

白木で銅板葺の綺麗な祠なんですょ
『巳さんに二拍手一礼』
白光天神社からさらに北に向かうと正面に
玉造稲荷神社があります。
玉造稲荷神社は垂仁天皇18年(紀元前12年)の創建と
伝わり、崇峻天皇元年(588)に蘇我氏と物部氏の
争いで、聖徳太子が玉作岡で『我に勝を
与えるなら、この栗の白木の箸に
枝葉を生じさせ給え』と
祈願すると、
枝葉が生じ勝利を収めたと云います。
ほんまかいなぁ![]()

境内には豊臣秀頼公と淀君を結ぶ胞衣(胎盤)塚大明神社が
あり、子供の夜泣きに霊験あらたかと云われています。
玉造の地名は、この一帯が古代の勾玉などを造っていた
玉作部の居住地であったことから名付けられたもので、
境内には創紀二千年を記念して難波・玉造資料館が
昭和61年(1986)に建てられました。
玉造稲荷の参拝を終え、本殿西側の車の通用門から退出し、
城西学園の塀沿いに北に向かい、
さらに城西学園の塀に沿って西に向かいます。
城西学園の北の通りを西に進むと突き当りに
越中井にでます。
この付近一帯は細川越中守忠興邸跡で、越中井は
邸内にあった井戸なのです。
越中井前の交差点を怪しげなる集団が通り過ぎていきます。
然も大坂城の方に![]()
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なんかいな❔と附いて行きたいのを我慢して
大坂城に背を向けてお散歩の再開です。