道頓堀にあった竹本・豊竹の両座が無くなり
衰える一方だった人形浄瑠璃は、
文化年間(1781~1800)に淡路島生まれの
植村文楽軒により高津橋で再興されました。
二代目文楽軒の代になり座を難波新地に移し
「いなりの芝居」と親しまれたのですが、
明治5年(1872)に、三代目文楽軒は松島新地入り口の
松ヶ鼻に座を移し、『文楽座』と正式に櫓を掲げたそうです。
難波神社北門に対抗する「彦六座」が進出しすると、
明治17年(1884)に御霊神社境内に移り『御霊文楽座』
として「彦六座」と対抗することにまります。
大正時代に描かれた大阪松島付近の地図です。(注・1)
松島新地は、明治の初頭に新町遊郭に代る大阪の新たな遊郭として、
木津川と尻無川に挟まれた寺島の北部を
開発して設けられました。
この松島遊郭の入り口に文楽座が開設されました。
幕末の頃に描かれた松ヶ鼻の浮世絵です。(注・2)
寺島の北端(現在の松島公園の北端)に樹齢300年
と云われる松の大木があったことから、
寺島の北端は「松ヶ鼻」と呼ばれていました。
明治の頃の松島新地の風景です。(注・1)
明治5年(1872)松島新地に芝居小屋を建て「文楽座」
と命名したのですが、
彦六座に対抗するため御霊神社境内に移ることになります。
寛政8年(1796)刊行の摂津名所図会御霊神社絵です。(注・3)
明治17年(1884)に文楽座は御霊神社境内に移り、
『御霊文楽座』として全盛を誇ることになります。
御霊文楽座に掲げられていた招きです。(注・4)
御霊文楽座の舞台・客席です。(注・4)
御霊文楽座は木造の2階建てで、1階に平間の升席と
両側に桟敷が設けられ、
2階席を含め750名収容の劇場だったそうです。
御堂筋平野町3丁目の交差点です。
平野町3丁目の交差点を左に曲がり一筋西に進むと
御霊神社はあります。
御霊神社東の鳥居です。
御霊神社は大阪湾が茅渟の海と呼ばれていた時代に、
入り江深くの海辺が泥濘、芦原の圓江(つぶえ)
という円形の入り江に創祀された圓神祠に
始まると伝えられています。
鳥居を潜って正面に拝殿があります。
主祭神 天照大神荒魂 応神天皇
津布良彦神 津布良媛神
拝殿(正殿)の脇参道に境内末社があります。
明治の神仏分離令発布まで神宮寺だった面影が。
大国主の隣に不動明王が祀られていました。
脇参道を西に抜けます。
参道を出ると左に美々卯の本店の前に出ます。
美々卯から少し南に下ったところのビルの前に
怪しげな鳥居が建っています。
戦前はこの鳥居から北は御霊神社の境内だったようです。
鳥居の前を東に進み元の御霊神社鳥居前に向かいます。
御霊神社東の鳥居前の風景です。
道を挟んで御堂筋との間に駐車場があります。
昭和4年(1926)火災で焼失するまでこの地に
御霊文楽座がありました。
昭和5年(1927)新たに松竹は
四ツ橋に文楽座を再建することになります。
御堂筋を長堀通まで後戻りをして
四ツ橋文楽座に向かうことにします。
今日もお付き合い有難うございました。
文中使用しました画像は
注・1 ヤフー画像ファイル蔵
注・2 大阪市立中之島図書館蔵
注・3 早稲田大学図書館蔵
注・4文楽人形芝居研究蔵
からの借用です。
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