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Channel: 浪花のおじさんぽ (^^♪
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雛祭に隠された呪い祓い

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季節の節目に身の穢れを払う大事な行事の節句が在ります。
1月7日『七草ぞうすい』、3月3日『桃の節句』、
5月5日『端午の節句』、7月7日『七夕祭り』、
9月9日『重陽の節句』などの節句があり、
本来は祝うより祓う意味の
行事だったのですが、

奈良時代に唐風一辺倒だった風習が
平安時代になると和漢折衷へと変化し、鎌倉
時代に入り武家の風習が宮廷にも取り入れられ、
更に本来と異なる風習へと変化を遂げてしまいました。


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上巳の節句『ひな祭り』は、

平安時代の『源氏物語・須磨の巻』に描かれている
『上巳の節句』は、陰陽師や修験者を呼んで
祓いをしてもらい、そこで使った
『ひとがた』を船に乗せて、
流すと記しています。


又、上巳の節句には次のようなことも
行われていたようです。

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半紙のような奉書を人の方に切った『形代』を、自分と見たてて
罪や穢れ・災いなどを形代に移し神前で祓った後、浄火で
燃やしたり海に流す行事も行われていました。

が、

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時代が江戸時代後期になると『上巳の節句(穢れ払い)』から、
人形が守り雛として祭られるようになり、宮廷の雅な装束を
再現した『有職雛』が作られ、現在の雛人形
『古今雛』が作られるようになりました。



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ええ様に変わりました。

 まんまんちゃん あん 





自信満々なにがや !

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雛まつりの歌の影響なのか解らないのですが、雛飾りの
一番上に置く一対の人形を『お内裏様とお雛様』
呼ぶTV各局のアナウンサーやレポーター。

内裏(禁裏)をモデルとして作られた雛(小さな物の意)人形、
何方が内裏で何方が雛ではおまへんがなぁ~。

強いて言えば男雛と女雛でっせ

笑いを取る芸人なら解るるけど、局アナまでが
同じ様に言いまっか


その内裏雛も関東と関西に違いがおまんねん。


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古来より『天子南面 臣従北面』と云う言葉が在ります。

偉人が南に向いたときに日の出の方向(東)が上座で、
日没の方向(西)が下座とされ、左側が
格上とされてきました。

その慣例に従って関西(特に京都)では内裏雛の
男雛を左に、女雛を右に配置します。


一方関東では、


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西洋の儀礼を取り入れられた大正天皇が、即位の礼で
洋装の皇后の右に立たれたことから、男雛を右に
女雛を左に配置するようになりました。


現在では全国的に関東雛タイプの配置が多く、

ただ『左近の桜 右近の橘』は

天子南面の名残で並べられているようです。



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歳のせいか最近どっちゃでもええ様なことを 

ごちゃごちゃ書き並べてます。


去年と同じ嫌味な話題で

堪忍してくださいね。


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御商売の方が大事ですか❔

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平成17年(2005)以来リーグ優勝から遠ざかっている
阪神タイガースは、今月30日から始まるリーグ戦を
前に、坂井オーナーを始め金本監督ら約250人が、
午前10時に西宮神社を訪れ優勝祈願を行いました。


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西宮神社は、福の神として崇敬される全国えびす神の
総本社で、金運と商売繁盛の神様として
霊験あらたかな神社なのです。


戦いの天照大御神の荒魂と神功皇后の
廣田さんチャイまんのか


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球場は満席で御商売繁盛


間違いなしでっせ ! ! !


電鉄は笑いが止まりまへんなぁ





春を迎える行事が始まりましたょ

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長かった冬に別れを告げる東大寺二月堂の伝統法会
『修二会』が一日から本行に入りました。


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一日の午後7時頃に二月堂の舞台に現れた『お松明』。

お松明は堂籠りの練行衆(僧)が15日未明の萬行まで、
宿所から二月堂に上がる際の灯となります。


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3月12日の深夜に東大寺二月堂境内の若狭井から、
本尊の十一面観音にお供えする『お香水』を
若狭井に送る儀式が福井県の神宮寺で
行われましたねぇ~。

若狭小浜の『鵜の瀬』から送られた『お香水』は、
10日かかって東大寺二月堂の若狭井に
届くと云われていますょ。


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 あと2週間もすれば待ちに待った春 


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関西では奈良のお水取りが終れば


春になるんですょ 



(画像はWeb上から借用)




甲東梅林でおじさんぽ

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阪神間の梅の名所として知られる西宮市の甲東梅林は、明治時代に
当時の貿易商芝川氏が拓いた果樹園に、梅や桜を植栽したのが
甲東梅林の始まりと云われ、現在は西宮市公民館の
庭園となっています。

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青空の見えない薄曇りの阪急宝塚線甲東園にやって来ました。

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駅前から続く河岸段丘の坂道を15分ほど登ると
甲東公民館に出ます。

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急な河岸段丘がなだらかな丘陵に変わったその先に
甲東公民館が在りました。

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公民館の庭なのであまり広くは無いのですが、39品種
約200本の梅の木が植栽されています。

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この日は地元の文化祭が行われていて、梅林庭園通路は
昔のお嬢さん方のたぬき踊りに占拠されていました。

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ほんのりといい香りが漂っています。

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早咲きの梅はもう満開なのですが、
遅咲きの梅はこれからのよう。

なので、

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梅林の観賞を終え学園前通りを関学上ヶ原
キャンパスの方に向かいます。

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関学の正門前には最近人気のチョコレート専門店の
デリスモアさんがあります。

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今年もバレンタインに娘擬きのペコちゃんが親父擬きの
福助に送ってくれたデリスモアのチョコレートです。

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デリスモアさんから少し坂を上がると関学がすぐそこに、

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正門から入って正面にヴォーリズ建築の
本館がお出迎えしてくれます。

キャンパス内は公園代わりに子供が遊んでいたり、市民も
通う新学生会館のレストラン神戸三田屋は、本格的
ステーキランチが食べられるのですが、今日は
学校がお休みなので学生会館もお休み。

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卒業シーズンなので学内の教会では
卒業演奏会が開かれています。



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未来を託す若者が巣立っていきます。



後は頼みましたょ。





道明寺と言えば『桜餅』

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色と香りで春を感じさせてくれる『桜餅』。

桜の葉で餅を包む和菓子の桜餅は、道明寺と長明寺の
二種類あって、関西風の桜餅を『道明寺』と呼び、
関東風の桜餅を『長明寺』と呼びます。

何方も江戸時代に桜の葉で餅を包む工夫が
なされたものなのですが、


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道明寺は一度蒸して荒く砕いたモチ米を、再び蒸して
色付けしたもので餡を包み、桜の葉で包みます。

戦国時代に、大坂の道明寺と云うお寺で作っていた
保存食の『干飯』が元になっていることから、
道明寺と名付けられたようですょ。


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長明寺は、水で捏ねた小麦粉を薄く焼いた皮で
餡を包んだものを桜の葉で包みます。

江戸時代に桜の落ち葉に悩んだ長明寺の僧が、塩漬け
にした桜の葉で餅を包んだのが広まり、『長明寺』と
名付けられたようですねぇ。



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桜餅まで東京と大阪の違いおまっか



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大阪で桜餅云うたら

道明寺のことだっせ 




道明寺でおじさんぽ

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いろは書く子はあへなくも 散りぬる命 是非もなや


竹本義太夫の『菅原伝授手習鑑』で語られる、
小太郎の亡骸を回向する名場面の一節。

文楽ファンなら一度は尋ねてみたい聖地の道明寺。

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やって来ました近鉄の道明寺。

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駅前から超ローカルな道明寺天神通りを西に向かいます。

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右手の道明寺天満宮を横目で眺め、さらに西に進むと、

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東高野街道に面した道明寺山門(楼門)前に出ます。

道明寺は、大阪府藤井寺市のある真言宗御室派の
尼寺で、山号を蓮土山と云います。

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推古天皇の時代に菅原道真公の祖である土師連八島が、
自宅として建立した土師寺が始まりで、元は今の
道明寺天満宮の前に在りました。

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菅原道真公が延喜元年(901)に大宰府に左遷されるにあたり、
土師寺に住む叔母の覚寿尼を訊ね『鳴けばこそ 別れも
優けれ鶏の音の なからん里の暁もかな』と詠み、
別れを惜しんだのが道明寺なのです。

道真公の死後土師寺は、道真公の号である
『道明』から寺名を道明寺と改めました。

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護摩堂前の梅の木が何故か寂しげですねぇ~

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山門を潜った正面に大師堂。

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道明寺天満宮を見つめるように建立された本堂です。

本堂には菅原道真公作と伝わる、カヤ材で一木造の
十一面観音立像(国宝)が安置されています。

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本堂の北に在る庫裏へ通る門です。

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庫裏の前庭には尼寺らしく上品なしだれ梅が
植栽されています

こちらで保存食の道明寺粉が作られていたんでしょうねぇ。


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観光寺や無いんでしょうねぇ、

覚寿尼や道真公を説明した案内が無いのは 



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桜餅も無かったことやし、天満宮へ


行ってみまひょか



道明寺天満宮梅まつり

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道明寺天満宮は、菅原道真公が祖とする土師氏の祖先に当る
野見宿祢の所領地で、宿祢の遠祖である天穂日命と
菅原道真公・叔母の覚寿尼を祭神とする
神社で大阪府藤井寺市にあります。

元は土師神社と称していたのですが、道真公の死後
道真公の号から『道明寺天満宮』と
改称されたようですねぇ。

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道明寺から東に数分の所に道明寺天満宮はあります。

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楼門を潜って境内に。

注連縄柱の右は駐車場になっていますが、
この付近に神仏分離令が発布されるまで道明寺がありました。

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境内中程に鳥居が建てられていますが、明治以前は
この鳥居からが天満宮だったのかもしれません

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鳥居を潜って拝殿前に進みます。

参拝を済ませ本殿裏の梅林に向かいます。

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本殿前の能楽堂では梅まつりの趣向で大正琴の
演奏が始まっていました。

聴衆者2名の寂しい演奏会。

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梅林には約80種800本の梅の木が植栽されており、
観梅を楽しむ人やアマカメラマンで賑っています。

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この日は暑くもなく寒くもない八分咲の観梅日和。

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梅のほのかな香を皆さん楽しんでいるようです。

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境内の片隅に猿回しの芸人さん。

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観梅で心満たされので、あとは桜餅でお腹も満たしたく
境内や商店街を散策したのですが、
何処にも桜餅は見当たらず

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仕方なく阿倍野まで帰って来ました。

ここまで帰ってきたら近鉄百貨店にでも、
と思ったのですが山の守殿から
帰宅命令のメールが、



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早よ帰ってこなお茶冷めるで


直ぐ帰りますよってに















まぼろしの中津川橋梁

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宇治川・木津川・桂川の三河川が合流した淀川は、大阪湾に流れ
込む前に数多くの支流となって、大阪湾に注いでいました。

その支流の一つに今では幻の川となった中津川が、
毛馬付近で淀川から分れ大きく蛇行し
大阪湾へと注いでいました。

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薩長連合太政官政府は、蒸気機関車による鉄道として
新橋と横浜間の工事を着手した翌年、京都と
神戸間の鉄道工事を始めました。

資料は二代目長谷川貞信が描いた十三川鉄橋です。
明治7年(1875)に開通した大阪神戸間の鉄道が
途中で中津川鉄橋を渡る風景を
描いたものです。(注 1)

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架橋された当時の写真です。
中津川鉄橋はイギリスから輸入した
日本最初の鉄道専用の鉄橋なのです。

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中津川鉄橋の一部が現在も十三小橋に併走して長柄運河跡の
歩道橋として現役で使用されています。

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まぼろしの中津川鉄橋(十三橋梁)が架けられていたのが
現在のJR塚本駅西側の矢印付近です。

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まぼろしの中津川鉄橋を訊ねてJR塚本駅北口にやって来ました。

中津川が流れていたのは駅から西(右方向)へ向かった所。

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大日本帝国陸地測量部が大正時代に作成した
塚本駅付近の地図です。

右上から左下へ斜めに通っているのが淀川で、
矢印の様に中津川が大きく湾曲していました。

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不自然なまま道路が湾曲した淀川区田川通りの画像です。

此の位置にまぼろしの中津川が流れていました。

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まぼろしの中津川河川敷から見たJR東海道線です。
おそらく此の位置にまぼろしの中津川鉄橋が
架かっていたのではと思われます。


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田川通りから北野高校傍の淀川右岸堤
(十三堤)に帰って来ました。

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「桜月十三堤草つみ」は、二代目長谷川貞信による浪花行事
十二月に描かれた、旧暦3月の春の訪れを感じさせる
気候を楽しむ人々が描かれています。(注 1)

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三代目長谷川貞信が描いた十三堤にも、うららかな気候を
楽しみながら草つみをする家族や、屋台でお酒を
飲む人の姿が描かれています。(注 2)

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昭和の中頃までは淀川の河川敷には、蕗の薹や土筆・
ヨモギなどの野草が沢山自生していましたが、
現在では十三堤の面影もなく野球や
サッカーを楽しむ場所に。

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淀川右岸を北に向かい十三大橋北詰から
浪花百景 『十三中道』へ向かいます。


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今日も一日が良い日でありますよう。




使用した資料(注1)は大阪府立中之島図書館蔵
(注・2)は大阪大学総合図書館蔵。




浪花百景『十三中道』

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淀川を挟んで大阪キタの中心地梅田の対岸に位置する十三は、
古くは中国街道・能勢街道の要所として栄えた街なのです。

現在は、阪急電鉄の京都・宝塚・神戸線の分岐点にあり、昭和の
中頃からは歓楽街として全国に名を馳せてきました。

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この地図は明治13年(1880)日本帝国陸地測量部が
作成した十三橋付近の地図です。

右下の南濱村(現・北区豊崎町)付近から円弧を描き
ながら北上した中国街道が、十三橋を通った先で
能勢街道を分岐する所が記されています。

十三橋を渡った所が成小路村十三になります。

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摂津名所図会大成には十三を『往還の旅人 間断なし 
名物として焼もちを売る家多し』と記しています。

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明治初期の能勢街道沿いにあった十三商店街の風景です。
中津川の改修で今は淀川の川床に沈んだ
幻の十三です。

この商店街の中にも十三名物『焼もち』を
商いするお店がいくつかあったそうです。

享保12年(1727)今里屋久兵衛が、中津川の北岸街道沿いに
焼もちを売る茶店を始めたのが始まりで、幕末の頃には
『今里焼もち』として摂津名所図会大成に
記された『十三焼もち』の店が、

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平成21年(2009)3月まで十三大橋北詰の
国道176号沿いにありました。

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画像左奥マンション付近に今里屋久兵衛本店がありました。
現在は北野高校近くに移転しています。

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新北野交差点からみた現在の十三大橋付近の風景です。
右の白いマンション付近に今里屋がありました。

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浪花百景石和版に描かれた芳雪(画)『十三中道』には、長閑な
田園風景を背景に街道筋の旅情緒が描かれています。

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十三トミータウン前の交差点です。

画像正面に国道176号(旧能勢街道)、左に向かう
府道41号(旧中国街道)の分岐点が十三中道に
描かれていた場所になります。

トミータウンを入ると、

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20m程の短い商店街のトミータウンです。

正面突き当りが阪急十三駅、その手前左に
『しょんべん横丁』があります。

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戦後の闇市から続く横丁なのですが、各商店にはトイレがなく、
客の多くが人目を避けて立ションをしていたので
『しょんべん横丁』と呼ばれるようになりました。

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そのしょんべん横丁が平成26年(2014)3月7日の早朝の
火災で、36店舗が消失してしまいました。

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法律の壁があり元通りの再建は不可能で、
以前と異なった姿で再建されました。

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阪急十三駅舎の軒とふれあうようにしょんべん横丁があり、
たい焼き屋さんの所には昨年まで十三焼きの
今里屋駅前店がありました。

現在は北野高校の近くに移転していました。



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十三といえば栄町でっせ


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久し振りに十三を訊ねた

懐かしさで


栄町を巡り帰宅します。






お詫びと訂正

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昨日掲載しました浪花百景石和版に描かれた芳雪(画)の
『十三中道』が描かれた場所を、府立中之島図書館の
情報から推測し、国道176号と府道41号が
分岐するところとして掲載しました。

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この資料は中之島図書館がホームページに掲載していた
浪花百景『十三中道』の所在を記した資料です。
①は十三中道が描かれた場所
②は十三渡しがあった場所
と、なっていました。

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明治13年(1880)大日本帝国測量部が作成した
十三橋付近の地図です。

十三の地名の発祥となった場所は、現在の十三と
呼ばれる地より南で中津川を挟んで
北野寄りに在りました。

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明治18年(1885)頃の西成郡中津町史に掲載されていた
成小路村字十三(赤色部分)の所在地図です。

明治時代初期まで淀川支流の中津川南岸の成小路村
(現・淀川区新北野付近)と北岸の堀村(現・淀川区
十三本町付近)を結ぶ渡しが設けられ、成小路村
字十三の地名が記されています。

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現在の地図に明治13年の地図を重ねてみました。

明治31年(1898)より新淀川の開削工事が実施され、当時の
十三は新淀川の河川敷地となり、元の十三の地名は
川の底に沈んで消えてしまいました。

十三が再び登場するのは、明治43年(1910)新淀川北岸に
箕面有馬電気軌道(現・阪急宝塚線)の十三駅名として
復活するまで待たなくてはなりません。

その後、大正14年(1925)に大阪市域拡張に伴って
大阪市に編入され、十三の地名が完全に
復活することになります。

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旧成小路村十三の能勢街道沿いに在った商店も
新淀川敷地になってしまっています。

画像、昨日は現十三から北野方面としていましたが、
正式には成小路村から堀村方向の画像で
奥に中津川が流れています。

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芳雪が描いた十三中道は上記画像から少し
中津寄りではと思われます。

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中津町史から推測すると、十三大橋のアーチ橋の手前から
淀川左岸当たりの風景が描かれたのではと、
扇屋は勝手に想像しています。


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先日掲載しました『十三中道』は府立図書館と、
古地図資料と違いが多々見受けられ、
再度の検証が必要と思います。




十三のねえちゃん

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敗戦による経済活動の荒廃や混乱を経て、「神武景気」や
「岩戸・いざなぎ景気」と呼ばれる好景気が続く大阪で、
昭和40年(1965)頃から千里ニュータウンの開発が
進み、同時に大阪万博が開催されました。

千里丘陵の開発や大阪市内の再開発に伴って、
関西には工事関係者が集まって来ました。

この頃の北大阪の歓楽街は、昭和30年代にはじめて
キャバレーが出来た十三しかなく、7件もあった
映画館や興行が行われていた公園も
無くなり、十三はネオンの街へと
変わっていきました。

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昭和46年(1971)に『梅田離れて 中津を過ぎりゃ 思い出
捨てた十三よ』と、歌いだしで知られた藤田まことさんの
「十三の夜」が全国的にヒットし、『ねえちゃん~ 十三の
ねえちゃん~』で十三は夜の街のイメージが
定着してしまいました。

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東を十三バイパス、西は阪急、北を淀川通、南を十三筋に
囲まれた十三の歓楽街には、全盛期に大型の
キャバレーが19軒も犇めき合っていました。

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国道176号に面した十三歓楽街のメインストリート
栄町通の入り口です。

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栄町通を一歩入ると入ると道頓堀や南地の圧縮版を
思わせる雰囲気や、昭和の香りが漂っています。

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こんなお店も十三にあります。
味にうるさい大阪人も納得の「大阪ねぎ焼き」発祥の
「やまもと」本店があります。

十三らしくやまもとの右隣には以前ピン・サロが
在ったんですけどねぇ~。

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さらに通りを進むと左にサンポードシティー、ここには
昭和の初め頃は映画館がありました。

第七芸術劇場と云う映画館がサンポードシティー内に
一軒だけ再建されてますけどねぇ。


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昭和30年代以前も十三はかっぽう着姿で楽しむ
庶民の街やったんですょ~。

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さらに栄町通を進むと「ヨッ、大統領」と威勢よく声掛けが
今にも聞こえそうなキャバレー「大統領」があり、

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大統領過ぎ角を曲がれば「アルサロのふうりゅう」が待っています。

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ふうりゅうの前の駐車場、確かここにはキング・オブ・キング
と云うキャバレーが在ったように思うのですが

藤田まことさんのショーが行われ、扇屋も遊びに
通っていたキャバレーやったんですけどねぇ。

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こちらはうふりゅう裏に位置するキャバレー十三の隣に、
大衆演芸の遊楽館があったり、

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遊楽館の近くには380円で宿泊が出来る激安ラブホがあったり、

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小さなスナックやパブなどに混じって春を商いする
お店までが混在してるのが十三歓楽街なのです。

が、

夜には違う顔を見せる昼間の十三は観光地として、
インバウンドの方達で大賑わいなのです。

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ぐるっと栄町通から十三1番街を巡って駅前の
しょんべん横丁に戻って来ました。

しょんべん横丁の小便小僧も人目が気になるらしく、
見返り姿で立ションをしていますねぇ。

十三らしゅうてええやんか。


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歓楽街としての十三を取り上げてみましたが、
住宅地としての十三は別の姿を
しています。

お間違いのないように。


お  ま  け


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平成13年(2001)に発刊された雑誌『大阪人』10月号に、
掲載されていた十三イラストマップです。

このイラストマップは中津第三尋常小学校の同窓生が、
昭和10年~20年頃の十三の記憶に基づいて
再現されたものです。




人は見た目が大事なんやねぇ

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人はそれぞれ中身が大切と言うけれど、やっぱり見た
目だけで判断されてしまうんですねぇ

ようやく春の暖かさが感じられる季節になって来ました。
しかし、困ったことに春先になると毎年
鼻がムズムズの扇屋。

今日も朝から『くっさめ くっさめ』、

鼻水たらりたらり。

天気予報によれば今年の花粉の飛散量は例年の倍との事。

『何とかなりまへんのかいな❔』

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テレビでは毎日「不要不急の外出は控えて」というけれど、
でべそ人間にとっては閉じこもりは無問地獄の
責め苦を受けるのと同じこと。

今日も鼻腔に花粉ブロックを塗り、オーバーグラスに
マスクで帽子をかぶり完全防備で
お出かけしたまでは

良かったのですが


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お前の眼は節穴か


善良な市民を不審者扱いすな

橋下徹ちゃんのTwitterやないけど


ア ホ ・ ボ ケ ・ カ ス



観梅日和ですなぁ

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阪神間の梅の名所として知られる中山寺観音公園は、
植栽された約1.000本の梅の木が今満開。

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阪急中山寺駅から約2分ほど歩けば山門前に到着です。

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山門を潜ってエスカレーターで手水舎前から観音公園に

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途中の観音茶屋前でパチリ。

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豊後紅梅をパチリ。

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摩耶紅梅、千島紅梅、白加賀、玉梅が競って咲き誇こり、
淡い梅の香が駄々寄っている観音公園です。



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この暖かさが続けばまもなく桜が咲きそうです。



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も う 一 寸 の 辛 抱 









うどん屋さんの電車が・・・! !

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水間鉄道は、南海電鉄の貝塚駅から水間観音駅までを
結ぶ全線5.5km程の小さな鉄道会社で、平成18年
(2006)にバブル期の投資失敗で事実上の
倒産をしてしまったのですが、

会社更生法の適用を受け東証一部上場企業の
グルメ杵屋の支援を受け経営再建を果たし、
『うどん屋さんが経営する鉄道』が
ついに誕生しました。


うどん屋さんの鉄道オリジナルヘッドマークが

関西で今話題を集めています。


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電車の『顔』をデザインしてみませんか❔と、昨年4月から
自分のデザインしたヘッドマークを10日間にわたって、
電車に装着できる権利を水間鉄道が
売り出しています。

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ヘッドマークは木製で直径約50cmの円形で、希望すれば
それ以外の形でもOKだと云います。

公序良俗に反してなければ絵柄や文言に制限はなく、
家族や企業のCMに各種記念日の写真など、
自由に楽しんでもらえればとの事。

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水間鉄道の終着駅として大正15年(1926)に建設された
水間観音駅舎は、水間寺の参詣客を意識して
正面中央部が卒塔婆風に、改札前を
吹き抜けにした和洋折衷の
デザインになっています。

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このヘッドマーク全国から申し込みが殺到していて、
只今2か月待ちとの事です。


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水間鉄道では駅舎構内に電車や車庫などを利用した
各種イベントが開かれ、えらい人気やそうで。


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流石に大阪のうどん屋さん

おもろいこと考えよる




ポスター並びにヘッドマークは水間鉄道の
ホームページより借用しました。





春ですけどねぇ~

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なんとなく心がウキウキする『春ですねぇ』と、独り言を
呟きながら何時もの公園に向かう扇屋です。


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何時もの公園も春を待ち望んだように人、人、人。

木々も若葉が芽吹き活気があふれてきました。

春はええねぇ~

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桜の開花の知らせが例年よりも早く届く一方で、
桜を代表するソメイヨシノは人の一生に
似るかのように『寿命が60年』
と言われていて、

寿命60年説のあるソメイヨシノの多くは、
戦後の高度経済成長期に植栽された
木が多いと云われ、何時もの
公園も老木だらけ。

こんな詩をが頭をよぎりました。


『わきて見む 老木に花もあわれなり

今いくたびか 春にあうべき』


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今日は『彼岸の入り』

彼岸とは、言葉の通り『岸の向こう』の意と云われ、
悟りの世界の事を言うのだそうですょ。



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ソメイヨシノも団塊の世代、

あと何回、春に巡り合えるんやろか❔




サブまんなぁ花冷えでっせ ! !

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春の暖かい日が続くなか、昨日から低気圧の関係で
北寄りの風が強まり、冬に逆戻りしたような
寒さに襲われている阪神間ですが、

高知からはソメイヨシノが満開になった
との報道が昨日届けられました。


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高知地方気象台によれば、高知市内で
ソメイヨシノが満開になったと発表。

気象庁によれば統計を取り始めた昭和28年(1953)
以降、最も早い満開だと云いますが、


阪神間は未だこんな状態、


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寒の戻りの寒さの阪神間の何時もの公園では、
咲きそうな気配を漂わせるソメイヨシノが
今日の寒さに震えています。

可哀想ですねぇ


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老木の幹に二輪だけ顔を覗かせてくれていました。

可愛いやっちゃ

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列島の南岸を通過する低気圧の関係で強い寒気が
昨日から流れ込み、寒の戻りのような寒さが
明日まで続くと予想されているので、



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急激な気温の変化で風邪をひく人が
増えているようです。


皆さ~ん、気ぃ付けくださいね。




雨降ってんのに物好きやねぇ

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お花見もいよいよ本番という季節に、発達した南岸低気圧が
通過するため、関東甲信地方では朝から冷たい雨や
雪が降り、所により積雪となっているようです。

阪神間も朝から断続的に雨が降り、冷たい風に
見舞われていますが、天気予報によれば
夕方から雷を伴った雨が激しく降る、
との予報が出ていますが、

チョイと晴れ間を見つけ何時もの公園に


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人の気配が全くない何時もの公園。

『こんな雨の日に誰がウロウロ遊びに来るねん❔』

『アホ・ボケ・カス・ヘタ』

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リュウキュウアセビさんも手持無沙汰で寂しそうにしてます。

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ヒューガミズキさんも高見から『今日もサブおますなぁ』

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生垣の隅からボケの花が『日溜まりは温くおまっせ』と、
余の退屈さに会議を開いている模様。

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こんな雨の日でもスギは花粉を飛ばし続けてくれてます。

『今日みたいな日ぐらい休みなはれ


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夕方から激しい雨が降る云うてるけど、


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明日は晴れてくれな困るわぁ。




寿命なんですか❔

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桜のソメイヨシノは江戸時代末期に江戸の染井村(現・東京都
豊島区)の植木屋が、『吉野桜』と称して売り出したもので、
サクラ界の歴史から見れば200年程度の
新参者だそうですねぇ。

薩長太政官政府が行った徳川政権時代の体制排除に
伴って、桜の名所であったヤマザクラまで政府の
意向でソメイヨシノに植え替えられました。

植栽から20年程度で木の横の広がりが20mを越える
成長の早さから、敗戦後の復興や東京オリン
ピックに合わせ植栽されたものが多く、
樹齢30年~40年を迎え樹勢の
衰退が進んでいるようです。

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哀れにもクビアカツヤカミキリムシによる食害で、
回復不能のダメージを受けた何時もの
公園のソメイヨシノの老木です。

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今にも朽ち果てそうになった幹から伸びた枝先に、
今年も花芽を付けています。


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痛ましい間で痛められた幹で花を咲かそうとする姿に、


頭が下がります。







インドア(エア)花見が流行っている❔

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冬の寒さが緩み草木が萌芽ぐむ春が訪れ、各地から桜の
開花が連日報道されています。

伝統文化など忘れているような若者たちまで、桜が咲くと
こぞって花見に繰り出し、飲んで食べての酒宴が
開かれるほど、日本人は桜が好きのようだ。


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古来より桜は、春になって山から下りてきた田の神が宿る
木とされてきました。桜の花をイネの花に見立てて、
豊作祈願の花見が行われていたんですけどねぇ。

天保5年に歌川広重の浪花名所図会『安井天神山花見』には、
庶民が桜の木の下で音曲を楽しみながら宴会
風景が描かれています。

(画像は国立国会図書館からの借用です)

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花見は奈良時代の貴族が中国文化の影響を受け、梅の
観賞をしたのが始まりと云われ、平安時代になって
國文化の芽生えから桜に変わったようです。

平安時代に書かれた日本最古庭園書『作庭記』には
『庭には花(桜)の木を植えるべし』と記され、桜の
木は庭造りの必需品だったようです。

(画像はNHK歴史秘話ヒストリアからの借用)

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今年は桜の開花宣言が例年より早く出されました。

毎年桜の開花時期になると天候が不安定になり、冷たい
雨が降ったり北寄りの風が強く吹きます。

今年も開花に合わせたように寒い日が続き、関東
甲信地方では積雪が見られました。

そんな天候不順から逃れるように若者の間では、

一風変わった花見が流行っているらしい❔

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『雨や寒さの心配をすることなくお花見を楽しみたい

と、そんな声に押されて『エア花見・インドア花見』
が、ビルの会議室やレンタルスペースで
行われ、プロジェクターで投影された
桜を楽しみながら酒宴が
開かれるそうです。

食事も出張シェフが行うので暖かい料理とお酒が
一緒に楽しめるようです。

参加者は評判も上々で、場所取りや荷物運びに買い出し等の
手間がかからないため、ミレニアル世代の複雑な
ニーズを満たしているようです。


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えらいハイカラな名前をつけてるけど、昭和の中頃に

夜の歓楽街でやってたんと同じやん 



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