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あぁ~ 期待外れゃ !?

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右を向いても左を見ても何処もかしこも観光客の増加で、
てんやわんやの大騒ぎをしています。

中でも、アニメや映画の舞台となったスポットへの巡礼が
大人気となり、観光は経済活動を活性化させる
一大産業として発展を遂げています。

が、

中には『楽しみにしてたのに』『あぁ~ 期待外れゃ』と
評判を落とす観光施設もあるようですなぁ。

久し振りに山の守殿と連れ立って
丹波観音寺に紫陽花を
観にやって来ました。



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観音寺は、奈良養老四年(720)に法道仙人によって
開かれた寺で、「関西花の寺第一番札所」に
指定されいる関西で最も古い紫陽花の
寺として有名なのです。


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仁王門から続く参詣道や観音巡りの小道沿いには、
約百種、約一万株の紫陽花が咲き誇っています。


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観光客の多くが一面紫陽花の丘でパチリ。

扇屋もつられてパチリ。

山の守殿も並んでパチリ。


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紫陽花の丘を散策中に見つけました、
展望台への案内標識。

何かええ景色が見えるかも解れへんよって
登って見いへんか❔


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山の守殿を誘って石段を『えっちらおっちら、どっこいしょ』

息を切らして登って見れば❔


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何じゃこりゃ~❔

何もめぇへんやないか

展望台いう詐欺やないか


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『なげきの展望台』と言って、ここを上りきれば、
『何かいいことがあるだろう』と期待しますが、
何も無いのが人生です。

との案内板が。


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何も無いのを売りにしてましてな、

何も無事(ないこと)を無事と云います。


な~んて 書いてありました。






セミの鳴き声で

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四季の変化がある日本には、季節の到来を感じさせてくれる
多くの生き物がおり、セミも季節を告げる生き物と
云われていて、『セミが鳴くと梅雨が明ける』
と俗説なんですけど云われています。

数日前にTVのワイドショーで関東でセミの
泣き声が聞こえたと報道をみて、

『何言ぅてまんねんな、まだ梅雨の真っ最中でっせ

てんご言ぅたらしょうちしまへんで

と、独り言の扇屋。


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気象庁は29日の今日、関東甲信地方が
梅雨明けをしたと発表しました。

関東甲信が6月に梅雨明けするのは始めてで、
昨年より7日、平年より22日早いよう。


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『セミの鳴き声で梅雨明け』


昔の格言はよう当たるなぁ。




イスラーム法の同害報復刑でっせ

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イスラーム法の法的規範の中に、あの有名な同害報復刑
(キサース刑)と言うのがあります。

同害報復刑は加害者が成人で知的に成熟しており、被害者と
同等の身分である場合には、被害者ないし相続人が
同等程度の報復をするというものです。

昔は10年に1度起きると云われているような凶悪犯罪、
特に残虐で凶悪殺人事件が発生しています。

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先日も東海道新幹線の車中で男が刃物を振り回したあげく、
複数の乗客を殺傷した事件がありました。

車内で取り押さえられた犯人は

『何も考えずに済む刑務所に入りたかった』

と言い、さらに、

『無期懲役を狙った』

とも述べているそうです。


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アホ ボケ カス

お前みたいなカスは

刑務所に入る資格ないわ ! !



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この国の司法制度変えなあかんで




梅花藻が咲き始めましたょ

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滋賀県の醒ヶ井を流れる地蔵川や、兵庫県の温泉町を流れる
田君川は、梅花藻で有名な有名ですが、近所の
何時もの公園の湧水路にも梅花藻が
白い花を咲かせてくれました。

しかし、今年は春先に管理人が水路整備を行ったため、
藻の成長が悪く藻場に集まる水中生物も少なく、
ホタルなども全滅の状態になりましたが、


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ひょっとすると咲いているかもと、何時もの
公園の水路を覗いてみると



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例年だともっと沢山綺麗な花を見せてくれるのですが、

今年は数えるほどしか咲いていません。

でも、



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梅花藻(バイカモ)別名はウメバチ藻

花言葉は『幸福になります』


見ただけで天神さんの

御利益がありそうや





ぼっち飯

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学生やサラリーマンが使う俗語の一つに『ぼっち飯』なる
言葉があるようで、昼食時に友達や仲間と一緒に
ではなく、独りぼっちで食事をする人の事を
言うのだそうですねぇ~。

昨今お独り様文化が定着してすっかり市民権を
得た『ぼっち飯』も、一時期トイレで独り飯を
食べる『便所飯』と言う言葉が注目され
ていたように、未だ『ぼっち』は
マイナスのイメージが
あるようです。

ぼっち飯は自由気ままに飲んだり食べたりすることが出来、
自主的にその行為を選ぶ人も少なくないのでは❔

今日扇屋の昼食は阪急十三駅で『ぼっち飯』。

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阪急十三駅構内にある阪急そば「若菜」さんで

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間違って注文をした鰊そばならぬ鰊うどんを頂き、

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ぼっち飯の続きに同じ駅のフレッカフェでコーヒーを
頂いてから帰宅です。



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七夕祭りやねぇ~

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北部九州から西日本にかけて記録的な大雨が降り続き、
2府22県で67万人以上の方が避難するという
事態に陥った今年の梅雨。

天の川ならぬ泥水の川を眺め『七夕祭りやなぁ~』と
雨の中独り言をつぶやく扇屋。

七夕と云えば、子供の頃『天の川を挟んで織姫と
彦星が1年に一度出会える日』と、
教わった記憶があります。

今年も保育園や幼稚園・小学校でも七夕飾りを造り、
商店街やショッピングセンターでも短冊を書いて、
笹に飾るコーナーが設けられたりしますなぁ。


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大阪メトロの西梅田駅にも願い事を書いた短冊を飾る
コーナーが設けられてありました。

古代中国の「荊楚歳時記」によれば、七月七日の夜に
女性達が美しい五色の糸を針に通し、星に裁縫の
上達を願った『乞巧奠』が七夕祭りの始まり
だと云われていますが、7月7日は
梅雨の真っただ中で、

天の川どころか星さえ見えません。

ましてや今年は、線状降水帯のおかげで
記録的な大雨が降っています。

扇屋が子供の頃は、新暦の月遅れの8月7日に七夕祭りが
行われており、真夏の夜空に輝く天の川に寄り添う
琴座のベガ(織姫)と、鷲座のアルタイル(彦星)
が見えていたんですけどねぇ~。



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美しい五色の糸を通し星に裁縫の上達を祈った七夕祭り、
今や五色の短冊に吹き流し、網飾りに折り鶴、神衣に
財布などの飾りが吊るされています。



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短冊に至っては『宝くじが当たりますよう


『長生きできますよう』と、お門違いの


願い事が記されていますねぇ~。










一夜明けて・・・

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活発化した梅雨前線の活動で記録的大雨に襲われた阪神間。
降り始めから2日間の雨量は443.5ミリで、六甲の
自然保護センターでは907ミリを
記録したと云います。

今回の豪雨は、昭和13年(1938)に発生した阪神大水害で
計測した600ミリを超える異常な降水量だったようです。

7日夜に大雨特別警報が解除され一夜明けた今日は、
薄日が差す蒸し暑い朝を迎えましたが、予報では
今日も大気の状態が不安定で、所により
雷を伴った雨が降る見込みだと
発表がありました。

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被災された方には申し訳ないのですが、何時もの公園に
連なる河川敷公園、先日までの豪雨の跡も見当たらず
朝から少年野球チームの子供たちが元気に
練習に汗を流していました。

川は濁流というよりも水かさが増した状態。

何事もない≒無事

改めて被害が無かったことに安堵した扇屋。



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南九州や四国、東海では未だ降り続いているよう、


雨が一刻も早く止むことを祈ります。




雑喉場(ざこば)の今昔

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雑喉場とは、大阪市にあった雑喉場魚市場のことで、
江戸時代には堂島の米市場、天満の青物市場と
並んで大阪の三大市場として繁栄しました。

豊臣政権下に天満の魚商人たちが、魚荷の集散に有利な
京町堀川下流の鷺島(現・西区京町堀3付近)に移転、
大坂に於ける鮮魚の独占市場が形成されました。

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今日も大阪メトロで阿波座にやって来ました。

新なにわ筋を少し北に向かい、本町通3交差点を左に
曲がって江之子島方面に

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先週も来ました阿波堀川が百堀川に注ぎ込んでいた
旧江之子島橋東詰めにやって来ました。

画像中央のマンション手前には百堀川に
雑喉場橋が架けられていました。

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大正13年(1924)発行の大阪パノラマ地図には、江之子島から
鷺島に架けられていた雑喉場橋が記されています。(注・1)

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昭和11年(1936)に架け替えられた雑喉場橋で、
正面奥に見える建物は大阪府庁舎です。(注・2)

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江之子島東岸の雑喉場橋西詰跡には、雑喉場橋の
親柱が残されていますが、当時の雑喉場商人の
気質を守りたいと保存されたようです。

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この道路と右の駐車場の所に百堀川が流れていました。

右に写っているマンションの所から奥に雑喉場がありました。

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幕末期に描かれた浪華百景石板版『雑喉場』には
浜上げの活気が描かれています。(注・3)

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初代長谷川貞信も浪花百景之内『雑喉場』に
当時の賑わいを描いています。(注・3)

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画像は大正4年(1915)頃の魚商いで賑う雑喉場です。(注・2)

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活気にあふれていた雑喉場魚市場も昭和6年(1931)に、
大阪福島の新設された大阪市中央卸売市場に
吸収され長い歴史から幕を閉じることに。

画像は旧江之子島北端から旧雑喉場(現・京町堀)付近です。

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寛政8年(1796)に刊行された摂津名所図会には、
『遠近の浦々から集められた魚を商う市が
群をなして立てられた』と記し、『慶安・
承応年間に鷺島に移転した』と
記しています。(注・4)

挿絵には船で運ばれた魚荷の陸揚げや雑喉場橋、
対岸の川口に在った船手番所も記されています。

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画像は幕末期に描かれた浪華百景石板版
『川口雑喉場つきじ』芳瀧(画)です。(注・3)

堂島川と土佐堀川の合流した安治川が、さらに木津川を
分流する三角地帯を川口と云い、ここに諸国から
大坂に入る船を監視する船手奉行所が
置かれていました。

浮世絵画像の雑喉場つきじは、江之子島北端から百堀川を
挟んだ雑喉場に架けられていた崎吉橋付近から、
川口の船手番所を描いたものです。

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芳瀧が幕末に描いた川口雑喉場つきじの現在の風景です。

今は江之子島から川口に昭和橋が架けられています。

昭和橋を渡った対岸に

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安治川の東岸に昭和6年(1931)に雑喉場を吸収した
大阪市中央卸売市場があります。(注・2)

画像は設立当初の市場で場内には国鉄の貨物線、
岸壁には貨物船が係留されています。

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現在の大阪市中央卸売市場です。

貨物船の係留されていた所は観光船の
乗り場に変わっています。



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次回は江之子島橋東詰めから


川口外国人居留地へ向かいます。



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(注・1) 国際日本文化研究センター蔵
(注・2) Web上の画像ファイル蔵
(注・3) 大阪府立中之島図書館蔵
(注・4) 早稲田大学図書館蔵
から借用しました。





大阪川口外国人居留地の今昔 其の壱

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     大阪川口にも横浜や長崎・神戸のように外国人居留地がありました。

     石油ランプの燈る街灯、ユーカリやゴムの樹などの見慣れない街路
     樹、馬車道と歩道に分れた広い道を行きかう人力車や自転車、教会
     や洋館が建ち並んだ川口外国人居留地は、大坂の西洋文化発祥の
     地だったのです。

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江戸時代の大坂川口は『出舟千艘・入船千艘』と云われる程、
舟の往来が激しかった安治川と木津川の分流点に
位置し、江戸幕府直轄の大坂船手会所や
船手屋敷が建ち並んでいました。(注・1)

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安政5年(1858)江戸幕府は米・英・仏・蘭・露の五ヶ国と結んだ
条約によって、大坂・箱館・横浜・新潟・神戸・長崎を開市
開港すると定めましたが、国内の政治経済が混乱し
テロ集団との内戦や攘夷派による外国人暗殺
事件などが相次ぎ、大坂が開港したのは
神戸開港翌年の慶応4年(1869)
になりました。(注・2)

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江戸幕府は、大阪川口に設けていた船手番所を神戸の海軍
操練所に移し跡地を26区画整備、引き続き10区画を
せいびした後、隣接する富島町・古川町・本田
一番町~三番町・梅町を外国人雑居地
として整備しました。(注・2)

しかし、

明治初期の大阪港であった安治川左岸の川口は、河口から
約6km上流の河港で水深が浅かったため、明治5年
(1872)に外国船の入港が途絶え、川口の外国人
貿易商は神戸へと転出していきました。

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川口居留地には、外国人貿易商に代わってキリスト教各派の
宣教師が定住し、病院や女子教育の場に変わっりました。

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雑喉場橋が架かっていた本町通に戻り西に向かって進すむと、
江戸幕府が木津川に架けた川口新大橋に出ます。

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川口新大橋(木津川橋)は川口と江之子島を結ぶ橋として、
江戸幕府が大坂開港に備えて慶応4年(1868)に
新しく架橋したものです。(注・2)

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川口新大橋(木津川橋)の江之子島川には関所が置かれ
警戒厳重な川口新大橋の現在の風景です。

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橋を渡るとそこには外国人居留地がありました。(注・3)

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川口新大橋(木津川橋)から見た現在の
外国人居留地の風景です。

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川口新大橋(木津川橋)を渡ってさらに西に向かい
安治川の東岸にやって来ました。

ここには明治の初め安治川橋が架橋されていました。

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安治川橋は川口外国人居留地設置後の明治6年(1873)に
新しく架橋され、中央の二徑間が鉄橋で高いマストの
舟が航行する際に、橋桁が旋回する可動橋で
「磁石橋」の愛称で親しまれていました。(注・2)

が、

イメージ 13

明治18年(1885)の淀川大洪水で浪華三大橋など多くの橋が
流失し、流木となって安治川橋に引っかかる事態を
起したので、橋は爆破され以後架橋されず
今日に至っています。(注・3)

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安治川橋が架かっていた所からすこし下った所に
大阪港開港の地の石碑が建立されていました。

此の地から少し南に下った所までが
河港であった旧大阪港なのです。



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川口外国人居留地の散策途中ですが

今日はこの辺でひとまず・・・です。



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(注・1) 天保8年(1837)刊、摂州大坂全圖
国際日本文化研究センター蔵
(注・2) 大阪府立中之島図書館蔵
(注・3) Web上画像ファイル蔵
から借用しました。







大阪川口外国人居留地の今昔 其の弐

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慶応4年(1868)の大坂開港に際して安治川左岸の現・西区川口が
開港場となり、隣接する冨島に港湾が築造されました。(注・1)

が、

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川口は安治川河口から6kmも内陸部に位置する河港のため、
川の狭さと浅さのため大型船が入れず、明治5年(1872)を
最後に外国船は大阪に入港しなくなりました。

画像は明治中頃の安治川岸壁です。(注・2)

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画像は大正中頃の安治川岸壁です。(注・2)

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昭和19年(1944)の安治川岸壁です。(注・2)

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昭和40年(1965)の安治川岸壁です。(注・2)

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港湾機能が安治川内港や大正内港に続いて、北港・南港に
移されてしまうと、一気にさびれてしまった開港場です。

対岸の卸売市場は活気にあふれてるのにねぇ。

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フェンスの中覗いたらまるでどっかの墓所みたい❔

案内板を読んでみると

大坂運上所云々と書いてあります。

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大坂運上所は、慶応3年(1867)に江戸幕府が安治川岸壁に
設けた貿易事務の取り扱い所で、画像は慶応3年
設置当時の大坂(川口)運上所です。(注・3)

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墓所のような石碑が設けられたところから少し南の
位置に、大阪税関冨島出張所があります。

此の地に慶応3年に大坂運上所が設けられていました。

大正9年(1920)西区三条通に移転するまで、大阪税関は
此の地にあり、移転後は大阪税関冨島出張所になって
いたのですが、平成20年(2008)閉鎖になりました。

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大阪税関冨島出張所跡から中央大通に一筋進むと、
冨島天主堂の石碑前に出ます。

画像では解りずらいのですが、右側の道路はその昔
古川が流れていました。

縁石の石組にその名残が残されています。

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石碑には冨島天主堂の当時の写真が添付されていました。

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川口居留地時代フランスのレック副領事の依頼で、本格的な
赤レンガ造りでゴシック様式のカトリック礼拝堂が
明治12年(1879)に建てられたようです。(注・4)

イメージ 13

富島天主堂の跡地は現在、聖マリア教会と
聖マリア幼稚園になっています。

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聖マリア教会からさらに南に下り、西税務署を左に見て、

中央大通を左(東)に曲がります。

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木津川を渡って阿波座に帰って来ました。

ここから大阪メトロで帰宅します。



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暑い中、今日も訪問有難う御座いました。




(注・1) 大阪府立中之島図書館蔵
(注・2) Web上 画像ファイル蔵
(注・3) 大阪税関ホームページ
(注・4) 川口居留地研究会蔵
から借用しました。





大阪川口外国人居留地の今昔 其の参

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堂島川と土佐堀川の合流した安治川が、さらに木津川を
分流する三角地帯を川口と云い、此の地に諸国から
大坂に出入りする船を監視する、船手会所
(奉行所)が置かれていました。

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天保8年(1837)発行の天保新改摂州大坂全圖には、
戎島の北端に大坂船手会所として
記されています。(注・1)

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寛政8年に刊行された摂津名所図会によれば、大坂船手会所は
元和6年(1620)に江戸幕府が設けた船番所で、大坂湾から
出入りする船舶の管理を行っていました。(注・2)

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特に西国の有力大名は参勤交代にあたり、船で大坂に
出入りすることが多く、西国諸侯の動向を注視して
いたのでないかと❔。(注・2)

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その場所がここ、左から堂島川と中央から土佐堀川が
合流し、右下に安治川と分流する木津川の
現在の風景です。

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角度を変えて、木津川側から見た安治川(左上)です。

この水域で船手会所役人が船舶の臨検を行っていました。

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慶応4年(1868)の大坂開港に伴って船手会所機能が
神戸海軍操練所に移設、跡地には外国人
居留地が整備され(注・1)

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異国情緒あふれる地に代わってしまいました。(注・3)

イメージ 8

現在の地図に居留地時代の地図を書き加えた地図です。
(Web上から借用しました)

開港場であった安治川左岸は河港で、水深が浅く川幅が
狭かったため、大型船の航行が困難なため明治5年
(1872)以降外国船の入港が途絶え、川口外国人
居留地は病院や女子教育の場と変わりました。

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幕末期に描かれた浪花百景石板版『雑喉場つきじ』芳瀧
(画)にも、百堀川に架かっていた崎吉橋から船手
会所を見た風景が描かれています。(注・3)

イメージ 10

浮世絵師の芳瀧さんが見た船手会所跡の現在の風景です。

正面のマンションや住友倉庫の位置に船手会所があり、
居留地となった後には

イメージ 11

聖バルナバ病院がありました。(注・4)

聖バルナバ病院は、明治16年(1883)川口外国人居留地8番に
外科手術が行われる完全看護の病院として開設しました。

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高度医療を提供するため昭和3年(1928)聖バルナバ病院は、
天王寺区細工谷に移転し現在に至っています。

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昭和橋西詰の川口交差点にやって来ました。

画像右隅に写っているトランクルームの位置に聖バルナバ
病院があり、正面のマンションから右隣の川口倉庫の
建物付近に、船手屋敷や船倉がありました。

イメージ 14

この画像は木津川橋から居留地の風景です。

画像右のマンション、正面中央の川口倉庫の所に
船手屋敷や船倉があり、居留地時代には右の
マンションの所にキニフル商会、左の
マンションの所に現在の桃山
学院がありました。

イメージ 15

明治の中頃に江之子島に位置した大阪府庁舎から見た
木津川橋です。木津川右岸の北詰に写っている
白い建物がキニフル商会です。(注・4)

イメージ 16

この画像は木津川橋を渡り川口側から木津川橋を見た風景で、
正面右のマンションが建っている所が居留地23番
桃山学院があった所です。

そのマンションの玄関先に

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大坂船手会所の石碑が建てられています。

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船手会所の石碑を横目で眺め木津川の右岸を右に

ことにしますが、


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不思議なことにここ川口にはカフェなるものや

喫茶店なるものがない



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中途半端ですが


今日はこの辺で



(注・1) 国際日本文化研究センター蔵
(注・2) 早稲田大学図書館蔵
(注・3) 大阪府立中之島図書館蔵
(注・4) 川口居留地研究会H・P
から借用しました。


大阪川口外国人居留地の今昔 其の四

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大坂川口の外国人居留地は、横浜や神戸の居留地の様に
商業的な発展はしなかったのですが、キリスト教各派の
宣教師たちによる医療や女子教育の場として発展し、
その後の大阪文化発展の礎になりました。

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大坂船手会所跡の石碑を左に見て
木津川右岸を右に曲がります。

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木津川右岸を右に曲がると左側(木津川右岸沿)に
川口アパートが並んでいます。

川口アパートは昭和3年(1928)頃に建築された旧・新大阪
新聞社の社屋で、現在は貸オフィスとして
使用されています。

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川口アパートの筋向いには、日本聖公会
川口基督教会があります。

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慶応4年(1869)に、米国聖公会宣教師ウイリアムズ主教が
川口居留地に居住し、英学講義所を開講すると共に
礼拝を始めたのが始まりで、明治14年(1881)に
教会が設立され、大正9年(1920)に現在の
礼拝堂が建設されました。

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赤レンガ造りでヴィクトリアン・ゴシック様式の美しい
伽藍の礼拝堂内部です。

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川口基督教会南隣の本田小学校敷地北西角に
設置された川口外国人居留地跡の石碑です。

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本田小学校南端でみなと通に架かる歩道橋上から見た
旧川口外国人居留地跡の現在の風景です。

此の地に明治の初めには

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この様な洋館が建ち並び石油ランプの街灯、歩車道分離の
道路の通る異国情緒豊かな街がありました。(注・1)

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ここは本田小学校東裏の通りで、木津川右岸に沿って
建てられた住宅群ですが、明治以前に天満の
天神さんの御旅所がありました。

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幕末期に描かれた浪花百景石和板『戎島天満宮御旅所』
国員(画)です。(注・1)

かつて天神祭りの船渡御は神輿が難波橋から船に乗り、
楽を奏して川を下って御旅所まで往復していました。

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幕末期に描かれた浪花百景之内『天満御旅所』
初代貞信(画)です。(注・1)

天満宮の御旅所は延宝年間頃に雑喉場から戎島に移転し、
その賑わいを一目見ようと多くの人たちが押し寄せて
来たと云います。ただ明治以後御旅所は
松島に移転してしまいました。

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木津川から見た戎島天満宮御旅所跡の現在の風景です。


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昭和20年(1945)の大阪大空襲で川口基督教会と
川口アパートを遺し、焼け野原となった川口は
戦後地味な倉庫街となったのですが、
再開発が進み現在は宅地に
変わろうとしています。

で、

天満宮御旅所跡の石碑はどこにあんねん❔

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天満宮御旅所跡の石碑は、木津川を挟んだ江之子島
旧大阪府庁舎跡の前に設置されていました。

しかもモーター屋さんの敷地内。

こんなとこにあつても誰も解らんで



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この後木津川を下って松島(寺島)に向かいます。




(注・1) 大阪府立中之島図書館蔵
から借用しました。


大阪本田千代崎界隈でおじさんぽ

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富豪・池山新兵衛によって開発された九条島は、大坂市中への
海の玄関として賑い、川口に外国人居留地が設けられると
外国人の遊興の地として松島が選ばれ、大坂市中の
遊郭を結集させ大坂最大の松島遊郭が
設けられました。

旧松島(現・西区本田)は、安治川から分流した木津川が南下し
尻無川が分流する三角地点にあり、江戸時代には寺島と
呼ばれて船大工の街として賑っていました。

イメージ 1

寺島の北端には松の古木があって松ヶ鼻とも呼ばれ、
この風景を賞するため遊客を乗せた船が
集まったと伝えられています。(注・1)

画像は初代長谷川貞信が幕末期に描いた、
浪花百景之内『松ヶ鼻』です。

『木津川亀井橋の下三四丁ありて、尻無川の分れ口、
寺島の頭ニて、一かぶの古松臥竜のごとしげりて
実に奇観なり。ゆへニ松ヶ鼻という。すべて
此へんふな大工多く、はせんのしゅうふく、
しん造の船おろし、泊ふねのほばしらハ
恰も九十九艸の茂がごとく・・・以下略』

『読み下し文について』
文字については出来るだけ原文のままにしましたが、
句読点は勝手に付け加えました。

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幕末期に描かれた浪花百景石和板『松ヶ鼻』国員(画)です。(注・1)

江戸時代に水辺の景勝地として親しまれた寺島の松ヶ鼻、
この一帯は慶応4年(1868)に松の古木に因んで寺島から
松島へと改称され、川口に居留地が造られたこともから
市中の遊所を松島に集め、大坂最大の遊郭の
地に代わってしまいました。

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明治2年(1889)に初代長谷川貞信が、大きな反り橋で有名になった
松島橋から松ヶ鼻を描いた『松島郭』です。(注・1)

橋の奥の金獅子が屋根に載った白亜三層の妓楼・松鶴楼は、
大阪府自ら客引きの目玉として建築したのもです。

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遊興の地として開発された松島は、上村文楽軒の文楽座が移転し、
大正時代には興行も盛んになり一大遊興地となりました。(注・1)

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大正13年(1924)に発行された大阪パノラマ地図です。(注・2)

左上から右下に流れる木津川に中央上から百間堀川が流入し、
中央下へ流出する尻無川がX字に記され、三角地帯の
先端に松の古木が記されています。

松の古木の対岸は大阪府庁舎の位置した江之子島です。

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江之子島側から見た現在の旧松ヶ鼻で、画像右の市立西屋内
プール付近に松の古木が在ったようです。この付近から
画像奥(南)の方に松島遊郭がありました。

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川口から木津川を下り松島橋までやって来ました。

画像は松島橋から見た百間堀川が木津川に流入していた所で、
マンションの建っている所が江之子島で雁木様の広場に
なっている所に百堀川が流入していました。

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明治初期の松島遊郭です。(注・3)

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大正時代の頃の松島遊郭です。(注・3)

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画像は昭和元年(1926)の松島八千代座です。(注・3)

明治2年に上村文楽軒が松島に建てた文楽座が、八千代座に
名を変え芝居小屋に変身していました。

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かつて遊興の地として賑っていた松島は、昭和20年(1945)の
大阪大空襲で完全に消失し、その姿を消してしまいました。

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松島遊郭の跡地は公園や住宅地に変わっています。

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松島公園の前に慶安2年(1649)に建立された竹林寺が残っていました。

竹林寺は江戸に向かう朝鮮通信使の宿舎として使用され、
長い道中病で亡くなった通信使の供養墓があります。

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松島公園から西に進み、みなと通を越えるとそこには
現在の松島新地があります。

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戦後ルーズベルト夫人の一言で廃止になった遊郭は、
GHQ対策で警察黙認の赤線地帯として
復活を遂げます。

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松島新地は戦後華やかな赤線地帯だったのですが、
昭和33年(1958)に売春防止法が施行され警察
黙認の赤線が廃止されました。(注・3)

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松島新地は営業形態が料理組合となり、自由
恋愛の場にその姿を変えたのですが❔


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やりて婆の声に振りむくと、おいでおいでの手招き


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やり手婆の掛け声につられて一歩足を踏み込めば、
屋内には化粧をした20~30代の女性が

(画像はイメージです)

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何とも異様な光景の松島は今も『ちょんの間』の街として、
地域に溶け込み市民の方も普通に生活をしています。



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今日はこの辺で






(注・1) 大阪府立中之島図書館蔵
(注・2) 国際日本文化研究センター蔵
(注・3) Web上の画像ファイル蔵
からの借用です。




昨日の続きです

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松島公園から松島新地会館前を経由して、大阪メトロ中央線を
潜ぐり少し北に進むと、九島禅院さんの前に出てきます。

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九島禅院は摂津名所図会によれば『龍渓禅師閑居の地』と
記されていますが、草創は定かでなく寛永の頃に幕吏・
香西雲ろ土豪の池山一吉が衢壌(九条)島を開発し、
寛文10年(1670)に自らの小庵に拙道和尚を
迎え、『九島庵』と名乗り祈祷所とした。
と記されています。(注・1)

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九島禅院の本堂には本尊の聖観世音菩薩像が安置され、
後水尾法皇の御尊牌と御念持仏の観音像が
安置されていますが、見学不可でした。

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境内には龍渓禅師が九島院の開山法要をした際、亀が花を
背負って祝福に来た古事により、『亀の墓』がありました。

九島禅院に立ち寄ったのは、こちらにも朝鮮通信使の
墓があると聞いていたのですが、見当たらず
亀の墓を1枚パチリ。。。

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九島禅院の参拝を終え、再びみなと通を南に下ると
歩道沿いに茨住吉神社の玉垣が・・・・

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茨住吉神社は寛永元年(1624)に九条島開発に際し、
産土神として勧請された神社で、同社は安治川・
尻無川に近いことから海上鎮護の神として
崇敬を集めていました。

画像は幕末期に描かれた浪花百景石和板『茨住吉』芳瀧(画)です。
境内両側に広がる新田や、その先の大坂湾の遠望が
参拝者を和ませたと云われています。(注・2)

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みなと通に面して境内南東角に設けられた
茨住吉神社の大鳥居です。

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大鳥居を潜ると正面に位置する2階建ての拝本殿が迎えてくれます。

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本殿奥に位置する宮殿には底筒男命・中筒男命・表筒男命・
息長足姫命の住吉四神が祭られています。

2階の拝殿に向かい、三礼八拍手一礼『あん』

茨住吉さんの作法では二礼拍手一礼なのですが、
作法を勝手に変更してのお詣りです。

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茨住吉神社の参拝を終えみなと通を少し南に下り
九条新町交差点にやって来ました。

九条新町交差点を左に

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若い人が多く活気がある街のようですねぇ。

こちらを東に少し進み、

ふくり商店さんの角を右に曲がって南に向かいます。

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ふくり商店さんを曲がって南に下ると天満宮松島御旅所があります。

こんな小っちゃなってもて

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大正13年の大阪パノラマ地図によれば、画像右下の
桜の森の中に松島御旅所が記され、御旅所の
北の通で尻無川に面した花園橋南詰に松島
八千代座が記されています。(注・3)

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天神祭りのクライマックスである船渡御は、現在では大川を
上流に遡りますが、明治から昭和初期までは大川から
堂島川・木津川へと進み戎島に上陸した後、陸路で
松島の天満宮御旅所を目指しました。

その夜は松島遊郭で夜通し遊び翌朝に
天満宮に帰ったと伝えられています。

高度経済成長期の地盤沈下によって、船が橋の下を
潜れなくなったため、現在のようなコースに
改められたようです。



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神さんも遊びが好きやったんやねぇ~。




(注・1) 早稲田大学図書館蔵
(注・2) 大阪府立中之島図書館蔵
(注・3) 国際日本文化研究センター蔵
から借用しました。








大阪千代崎でおじさんぽ

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大阪千代崎は、大阪市のほぼ真ん中に位置する西区の南端に
位置し、木津川に沿って細長い町を形成しています。

千代崎の地名は木津川下流の千本松の表現に
『千株の竝松(なみまつ)蒼々として千代に
栄の色あらわれし』とあったことから
名付けられた地なのです。

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ドーム前千代崎橋から見た木津川上流の風景です。

木津川右岸を旧川口居留地から旧松島遊郭を
散策しながら千代崎南端まで来ました。

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画像は大正時代の大阪ガス岩崎町工場の航空写真です。(注・1)

千代崎は、明治38年(1905)に建設された岩崎町工場から
大阪市内に都市ガスが供給された大阪ガス
発祥の地なのです。

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大正13年(1924)に発行された大阪パノラマ地図です。(注・2)

千代崎の南端には大阪ガスのほか発電所などの
工場地帯で公害の地だったのです。

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現在の千代崎南端の地図です。(注・3)

大阪ガス岩崎町工場は都市ガスの天然ガス化のため、
岩崎町工場はその役目を終え平成9年(1997)に
閉鎖され跡地が再開発されることに

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平成9年(1997)に大阪ガス岩崎町工場の跡地が再開発され、
ドーム球場や商業施設などの建設が進み、
公害の街からその風景が一変。

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ちょこっと大阪ドームに

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ドームの催し案内を覗きに寄ってみたら、

なんでやねん!

これはないやろ 

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関東人が大阪のおばちゃんを揶揄したなりして !

『大阪で東京対決、なんでやねん』

と大見出しのポスター。

ドームはイメージ 9の準フランチャイズやで

悲しいなぁ・・・聖地甲子園でも勝たへんから

読捨の好き勝手なふるまい


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ドーム前千代崎の対岸は道頓堀川が木津川に流入する地点で、
画像は道頓堀川の水門付近の風景です。

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画像左から右に木津川が流れ木津川から尻無川が
分流し右下方に流れています。

岩松橋を渡り大正交差点を左に行くと難波になります。

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桜川を散策して難波に出ようかと悩んだのですが❔

この日照りに負けて

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JR環状線の大正駅や、大阪メトロのドーム前千代崎駅や

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阪神電鉄のドーム前駅があり、大阪シティバスの
接続もある交通の便が良い所なのです。

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何やかんや言うても阪神電車に乗ってしまうわ。

ドーム前駅から難波まで行ってから帰宅します。



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この暑さ誰か何とかしてぇなぁ




(注・1) WEB上の画像ファイル蔵
(注・2) 国際日本文化研究センター蔵
(注・3) Yahoo地図ファイル蔵
からの借用しました。




今日はお付き合いで・・・

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西日本各地を襲った7月豪雨は、記録的な被害を
1府7県にもたらしました。

大災害を目の当たりにして改めて感じたのは、
河川整備が行われていれば氾濫や土砂
崩れが、抑えられていたのではと
疑問がわいてきました。

数年前『コンクリートから人へ』と叫んでいた二重国籍の
議員の方が、政府の災害対応で公共工事の
批判を行っていましたが、

一寸待てよ・・・。

百年に一度の大雨のための土木予算など
『無駄』だと云って、予算の削減施策
取ったんは『何処の誰なん』。

なんて呟きながら、この暑い中被災者の救助や復旧活動に
携わる自衛官、消防官、警察官、一般のボランティアの
方に感謝しながら、ご近所さんと咲くやこの花館へ。

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やって来ました大阪メトロの鶴見緑地駅。

こちらから鶴見緑地公園内の咲くやこの花館に向かいます。

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危険な暑さが続いているので,不要な外出は控えるようにと
報道されていますがこの灼熱の地獄の中をぶらぶら
公園に来る『アホ』はおらんな~ぁ、やっぱり❔。

と、ご近所のお連れさんも呟いていました。

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と思ってたらお一人さん、咲くやこの花館に入っていきはります。

『暇な御仁もおりまんなぁ』と、またご近所のお連れさん。

『そんなぁ云うたらあかんで自分の事棚に上げて』

誰が言うたか❔

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順路に従って熱帯雨林植物室に入っていくと
『バンダ』という名の蘭が迎えてくれました。

『余りの暑さに🐼と間違ごうてしまうがなぁ』と扇屋。

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温室傍の人工池に扇屋の大好きな睡蓮が(・□・;)

めっちゃ! 綺麗な睡蓮でした。

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エイリアンに似た蘭なんですけど名前忘れました。

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余りの暑さに高山植物室へ逃げ込み『あ~ぁ、此の冷気

ほんまに生き返るなぁ』、咲くやこの花館で

唯一冷房が効いた温室なのです。

マルバシヤジンという名前がついていました。

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ヨーロッパ中部に咲くキンポウゲの仲間で
フルサテイラ・ブルガリスなんだそうです。

全身産毛に覆われた紫のちっちゃな花なんですけど、
カメラマンの多くが心を奪われていました。

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帰り際に咲くやこの花館の裏側に回ると、けったいな
廃墟のような訳の分からん石組に出会いました。

何の跡なんやろねぇ

知ってる方いませんか❔



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もをあかん


早 ょ い の


倒 れ そ う や !








中途挫折なんですけど

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毎日朝から『命を奪う暑さ』と報道で脅かされ、救急搬送される
患者の半数が高齢者と嫌味を言われながら、
今日も塩飴と飲料水を持ってお散歩に
出掛けたのは良かったのですが。


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7月豪雨明け以後続いている厳しい暑さ、全国の観測地点
927地点の内、233地点で今日も最高気温が
35度を越える猛暑日となったようです。

『 ちょっと異常やで ! 』

連日の記録的猛暑のため、行事やイベントが
中止される事が多くなってますねぇ。

祇園祭山鉾連合会は報道各社を通じて見物客に、熱中症
対策を訴える異例の呼びかけを発表し、祇園祭の
後祭の宵山期間が21日始まったのですが、
24日に予定されていた花傘巡行を
猛暑のため中止すると
発表しました。

が、

塩飴と飲料水を持って久し振りに

京都まで



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熱中症で救急搬送される患者のおよそ半数が、温度に
対する感覚が弱くなった高齢者と、今朝も
NHKが脅し半分で

口渇感、眩暈、脳虚血、痙攣や全身倦怠感
を感じたら、木陰など風通しの良い所に
移動し、水分の補給を心掛けること。

なんて言ってましたけどねぇ。


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余りの暑さに日陰伝いに駅に向かって歩いていると、
あっちこっちに小さな穴が。

付近の木を見上げてみると、セミの抜け殻が大量に

『こんなん見たら余計にセミの大合唱が気になるなぁ~』

『そんでのうても年がら年中耳の中でセミ鳴いてるのに』

『あかん頭までふらついてきよった、あかん今日はいの』



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慌てて自宅に戻ってみれば山の守殿のえげつな~ぃお言葉が

『今行ったとこ違うの❔ もう帰って来たん❔』


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思い切り言い返したかったんですが、

一言が五倍十倍になって帰って来そうなんで、


おとなしくお返事だけ『ハイ』




かっこ悪い話やおまへんか❔

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日にち毎日朝から猛烈な暑さに襲われている京阪神間、
いや日本全国灼熱地獄に襲われています。

総務省消防庁が熱中症の症状で今月の16日~22日の
1週間に救急搬送した患者は、全国で2万2647人と
発表、このうち65人が死亡し1週間の死亡者数も
最多となったと発表しました。

救急搬送された全患者の内65歳以上の高齢者が、
1万525人で全体の46.5%を占め、最多の
更新を繰り返しているようです。


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祇園祭にと洒落込んでみたのですが、想像以上の暑さと
人込みで急激に気分が悪くなり、眩暈、頭痛、脳虚血、
倦怠感を覚えたので、アーケード下の日陰に避難し
道行く人にお願いをして自販機から冷水2本と
経口補水液を買ってもらい、腋下に冷水を
挟み、落ち着いてから経口補水液を
少しづつ飲み続けました。

30分ほどで症状が治まりましたがその足で
大丸京都店の階段踊り場に避難。

『これは熱射病やないか ! 』

『儂としたことがなんちゅうこっちゃ』

『洒落にも成らんで ! 』

1時間ほど体を冷やし烏丸から戻って来ました。

所ジョージさんのCMではないですが、
『自分だけは大丈夫』
と思ってたんですがねぇ~。

睡眠不足が禍したんでしょうか、
昔から体力には自信があったんですけどねぇ~。


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友人のDr君曰く『全治1週間程の熱中症』の診断。


結果

山の守殿の監視で自宅軟禁


こいつは無問地獄よりも辛ろまっせ






へそ曲がりやねぇ

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今朝は昨夜の夕立のおかげで、比較的涼しい感の
朝を迎えることが出来ました。

が、


イメージ 1


それもつかの間の出来事で、日が昇りだした途端カンカン照りの
太陽に襲われ、猛暑日となった阪神間です。


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夏休みに入っているのに何時もの公園は人の気配もなく、
此の陽射しを楽しんでいるのはヒマワリだけ。


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太陽が西の空に傾き空が今日も赤く染まりました。

古来より『夕焼の翌日は晴れ』と云う諺があります。

が、

明日は台風の影響で大荒れのお天気と
なる予想が出ています。


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気象庁によれば台風12号が異例の進路をたどり、雨の
降り方や風向きなどが通常と異なり、過去の
経験が通用しない台風なのだそうです。


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明日の夕方から明後日の未明にかけて、
岡山・広島方面を通過するようです。


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月初めの大雨の被害も未だ復旧してないのに


なんちゅうこっちゃ






命の源の水も・・・・ !❔

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万物にとって生命の維持をするために必要不可欠の水、
水の分子が雨となって地上に降り注ぎ、地中に潜って
地下水となったり、あるいは植物に吸い上げられ
たり、川となり海に注ぎ再び蒸発して雲になり
雨となって地上に降り注ぐ水。

梅雨前線の停滞による西日本豪雨で13府県で死者
126人、行方不明者49人という大災害は、台風や
地震でも津波でもなく、何時も降る『雨』が
原因で起こりました。

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生きていくのに欠かせない大切な水なのですが、
その量によっては大変な脅威となります。


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伊勢に上陸した台風12号は大阪を経由して、岡山・広島の
豪雨災害地を巡って玄界灘に抜けるようです。


『水』の持つ力の大きさに、

いまさらながら

驚きを禁じえません。


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 更なる被害が出ないことを 





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