幕末期に描かれた浪花百景石和板『松ヶ鼻』国員(画)です。(注・1)
江戸時代に水辺の景勝地として親しまれた寺島の松ヶ鼻、
この一帯は慶応4年(1868)に松の古木に因んで寺島から
松島へと改称され、川口に居留地が造られたこともから
市中の遊所を松島に集め、大坂最大の遊郭の
地に代わってしまいました。
明治2年(1889)に初代長谷川貞信が、大きな反り橋で有名になった
松島橋から松ヶ鼻を描いた『松島郭』です。(注・1)
橋の奥の金獅子が屋根に載った白亜三層の妓楼・松鶴楼は、
大阪府自ら客引きの目玉として建築したのもです。
遊興の地として開発された松島は、上村文楽軒の文楽座が移転し、
大正時代には興行も盛んになり一大遊興地となりました。(注・1)
大正13年(1924)に発行された大阪パノラマ地図です。(注・2)
左上から右下に流れる木津川に中央上から百間堀川が流入し、
中央下へ流出する尻無川がX字に記され、三角地帯の
先端に松の古木が記されています。
松の古木の対岸は大阪府庁舎の位置した江之子島です。
江之子島側から見た現在の旧松ヶ鼻で、画像右の市立西屋内
プール付近に松の古木が在ったようです。この付近から
画像奥(南)の方に松島遊郭がありました。
川口から木津川を下り松島橋までやって来ました。
画像は松島橋から見た百間堀川が木津川に流入していた所で、
マンションの建っている所が江之子島で雁木様の広場に
なっている所に百堀川が流入していました。
画像は昭和元年(1926)の松島八千代座です。(注・3)
明治2年に上村文楽軒が松島に建てた文楽座が、八千代座に
名を変え芝居小屋に変身していました。
かつて遊興の地として賑っていた松島は、昭和20年(1945)の
大阪大空襲で完全に消失し、その姿を消してしまいました。
松島遊郭の跡地は公園や住宅地に変わっています。
松島公園の前に慶安2年(1649)に建立された竹林寺が残っていました。
竹林寺は江戸に向かう朝鮮通信使の宿舎として使用され、
長い道中病で亡くなった通信使の供養墓があります。
松島公園から西に進み、みなと通を越えるとそこには
現在の松島新地があります。
戦後ルーズベルト夫人の一言で廃止になった遊郭は、
GHQ対策で警察黙認の赤線地帯として
復活を遂げます。
松島新地は戦後華やかな赤線地帯だったのですが、
昭和33年(1958)に売春防止法が施行され警察
黙認の赤線が廃止されました。(注・3)
松島新地は営業形態が料理組合となり、自由
恋愛の場にその姿を変えたのですが❔
やりて婆の声に振りむくと、おいでおいでの手招き
やり手婆の掛け声につられて一歩足を踏み込めば、
屋内には化粧をした20~30代の女性が
(画像はイメージです)
何とも異様な光景の松島は今も『ちょんの間』の街として、
地域に溶け込み市民の方も普通に生活をしています。
今日はこの辺で
(注・1) 大阪府立中之島図書館蔵
(注・2) 国際日本文化研究センター蔵
(注・3) Web上の画像ファイル蔵
からの借用です。