中世の頃に摂津国の旧淀川河口近くに渡辺の津
と呼ばれる港に、国府がおかれており港の位置す
る町名は国府の転訛とも言われています。
平安時代の後期には源融にはじまる嵯峨源氏の
源綱(渡辺綱)が渡辺の津に住んでいたと伝えら
れています。
渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団に発展
し、港に立地することから水軍として日本全国に
拡がっていったと云われています。
新町廓跡の散策を終え四ツ橋筋を北進します。
写真は、大阪に本社を置く総合商社の長瀬産業ビルです。
正面の立売堀ビルの左隣りの花王ビルが
建っている所が立売堀川が流れていたところです。
立売堀は、大坂冬の陣と夏の陣で伊達氏が
この付近に堀を作り、その堀跡を掘り足したことから
伊達掘りが訛り「立売堀」となったようです。
立売堀川の北に流れていた阿波座川跡を
右に曲がり旧西横堀川(阪神高速環状線)を渡った
所が久太郎町になります。
阪神高速環状線の下を潜ると座摩神社西の鳥居に出ます。
座摩神社は、正式には「いかすり神社」と云いますが、
地元では「ざまさん」と親しみを込めて呼ばれています。
神宮皇后が三韓征伐より帰還したとき、淀川河口の
渡辺の津(現・中央区八軒家浜)に座摩神を
祀ったのが始まりと伝えられています。
寛政8年(1796)に刊行された摂津名所図会です。
(早稲田大学図書館蔵)
天正11年(1583)豊臣秀吉公の大坂築城に際して、渡辺の津から
西横堀川近くの船場の地に遷座しました。
本町通にも近く多くの物売りや見世物が門前に集まり、
特に古着屋が多く集まっていたといいます。
後に神社近くで「そごう」という古手屋が生まれ、
船場が繊維の街として発展するきっかけになりました。
西の鳥居を潜った正面に陶器神社と稲荷神社があります。
陶器神社は、明治40年(1907)に靭南通りからこの地に
遷座したもので、かって西横堀川の北は筋違橋から
南の四ツ橋までの西側には、陶器問屋が約200軒軒を並べていて、
陶器神社はその守護神として祀られていたようです。
境内を逆に進むと拝殿前に出ます。
拝殿前の境内には大阪府神社庁のビルが建っています。
東向けに建てられた拝殿・本殿です。
拝殿から拝する本殿です。
御祭神 生井神・福井神・綱長井神・
阿須波神・波比岐神
5柱を総称して座摩神といいます。
東の入り口の鳥居です。
大小3つの鳥居が横に組み合わさった珍しい
「三つ鳥居」になっています。
鳥居の南側(左)に神社庁のビルが建っています。
冒頭の久太郎町四丁目渡辺の住居プレートは、
神社庁ビルの壁に着けられていたものです。
座摩神社所在地が中央区久太郎町四丁目渡辺3号。
世襲宮司の渡辺氏は摂津国都下国造の末裔で、
嵯峨源氏の流れを汲むと云われています。
この住所は、神社と氏子が渡辺の津から移転してきたことと、
「全国渡辺会」(渡辺姓の集まり)が渡辺姓の
ルーツである渡辺の町名を遺すための請願で、
残されたそうです。
座摩神社から高速沿いに北に進み信濃橋にやってきました。
信濃橋は、永瀬七郎右衛門によって開削された西横堀川に
架けられた橋の一つで、古くは富田町橋、間橋とも呼ばれていた
のですが、元禄時代に信濃橋と呼ばれるようになったそうです。
昭和37年(1962)阪神高速道路の建設に伴って
その姿を消しました。
信濃橋から四ツ橋筋の信濃橋交差点の風景です。
手前のゴルフショップは福助が20代の頃らの
お付き合いのあるお店です。
四ツ橋交差点から梅田方面の風景です。
左のピルは八幡製鉄(現・新日鉄住友)の大阪支店の
跡地に建つ三井信濃橋ビルです。
北に行くと靭公園です。
もう間もなく靭公園が見えてきます。
靭公園で一休みします。
今日もお付き合いありがとうございました。