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中央区久太郎町四丁目渡辺3号

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イメージ 1   中世の頃に摂津国の旧淀川河口近くに渡辺の津
   と呼ばれる港に、国府がおかれており港の位置す
   る町名は国府の転訛とも言われています。
   
   平安時代の後期には源融にはじまる嵯峨源氏の
   源綱(渡辺綱)が渡辺の津に住んでいたと伝えら
   れています。

   渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団に発展
   し、港に立地することから水軍として日本全国に
   拡がっていったと云われています。


イメージ 2

新町廓跡の散策を終え四ツ橋筋を北進します。

写真は、大阪に本社を置く総合商社の長瀬産業ビルです。

イメージ 3

正面の立売堀ビルの左隣りの花王ビルが

建っている所が立売堀川が流れていたところです。

立売堀は、大坂冬の陣と夏の陣で伊達氏が

この付近に堀を作り、その堀跡を掘り足したことから

伊達掘りが訛り「立売堀」となったようです。

イメージ 4

立売堀川の北に流れていた阿波座川跡を

右に曲がり旧西横堀川(阪神高速環状線)を渡った

所が久太郎町になります。

イメージ 5

阪神高速環状線の下を潜ると座摩神社西の鳥居に出ます。

座摩神社は、正式には「いかすり神社」と云いますが、

地元では「ざまさん」と親しみを込めて呼ばれています。

神宮皇后が三韓征伐より帰還したとき、淀川河口の

渡辺の津(現・中央区八軒家浜)に座摩神を

祀ったのが始まりと伝えられています。

イメージ 6

寛政8年(1796)に刊行された摂津名所図会です。 
(早稲田大学図書館蔵)

天正11年(1583)豊臣秀吉公の大坂築城に際して、渡辺の津から

西横堀川近くの船場の地に遷座しました。

本町通にも近く多くの物売りや見世物が門前に集まり、

特に古着屋が多く集まっていたといいます。

後に神社近くで「そごう」という古手屋が生まれ、

船場が繊維の街として発展するきっかけになりました。

イメージ 7

西の鳥居を潜った正面に陶器神社と稲荷神社があります。

陶器神社は、明治40年(1907)に靭南通りからこの地に

遷座したもので、かって西横堀川の北は筋違橋から

南の四ツ橋までの西側には、陶器問屋が約200軒軒を並べていて、

陶器神社はその守護神として祀られていたようです。

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境内を逆に進むと拝殿前に出ます。

拝殿前の境内には大阪府神社庁のビルが建っています。

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東向けに建てられた拝殿・本殿です。

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拝殿から拝する本殿です。

御祭神  生井神・福井神・綱長井神・
阿須波神・波比岐神

5柱を総称して座摩神といいます。

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東の入り口の鳥居です。

大小3つの鳥居が横に組み合わさった珍しい

「三つ鳥居」になっています。

鳥居の南側(左)に神社庁のビルが建っています。

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冒頭の久太郎町四丁目渡辺の住居プレートは、

神社庁ビルの壁に着けられていたものです。

座摩神社所在地が中央区久太郎町四丁目渡辺3号。

世襲宮司の渡辺氏は摂津国都下国造の末裔で、

嵯峨源氏の流れを汲むと云われています。

この住所は、神社と氏子が渡辺の津から移転してきたことと、

「全国渡辺会」(渡辺姓の集まり)が渡辺姓の

ルーツである渡辺の町名を遺すための請願で、

残されたそうです。

イメージ 13

座摩神社から高速沿いに北に進み信濃橋にやってきました。

信濃橋は、永瀬七郎右衛門によって開削された西横堀川に

架けられた橋の一つで、古くは富田町橋、間橋とも呼ばれていた

のですが、元禄時代に信濃橋と呼ばれるようになったそうです。

昭和37年(1962)阪神高速道路の建設に伴って

その姿を消しました。

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信濃橋から四ツ橋筋の信濃橋交差点の風景です。

手前のゴルフショップは福助が20代の頃らの

お付き合いのあるお店です。

イメージ 15

四ツ橋交差点から梅田方面の風景です。

左のピルは八幡製鉄(現・新日鉄住友)の大阪支店の

跡地に建つ三井信濃橋ビルです。


北に行くと靭公園です。



イメージ 16


もう間もなく靭公園が見えてきます。


靭公園で一休みします。



イメージ 17


今日もお付き合いありがとうございました。












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