靭公園は、大阪市西区靭本町にある都市公園で、東の四ツ橋筋から西のあみだ
池筋と、北の旧京町堀川から南の旧海部堀川に挟まれた東西に細長い公園です。
昭和6年(1931)に大阪中央卸売市場が開設されるまでは、この地に塩干魚市場
がありました。この一帯は、昭和20年(1945)の大阪大空襲で一面焼け野原と
なりましたが、戦後の昭和30年(1955)に公園として整備されました。
靭公園は、中央を横断するなにわ筋によって東園と西園に分かれており、東園
はケヤ木並木とバラ園で構成された憩いの場で、西園は国際大会にも使用でき
る靭テニスセンターを中心に16面のテニスコートで構成されています。
信濃橋から徒歩5分程度で靭公園前にきました。
MINI STOPでアイスコーヒーとかき氷を買って公園で一休みします。
江戸時代の掘割が描かれた靭付近の地図です。
中央左に雑喉場魚市場、右に靭塩干魚市場がありました。
幕末期に描かれた永代浜(塩干魚市場の)浮世絵です。
大阪府立中之島図書館蔵
靭は元和8年(1622)に、この地に移転してきた塩干魚商人らによって開発された
場所で、海部堀川沿いには海産物を扱う問屋街が形成されていました。
靭の地名は、豊臣秀吉公が市中巡視のおり、町で魚商人が「やすい・やすい」と
威勢の良い商いの声を耳にして、「やす(矢巣)とは靭(矢を入れる筒)」といった
ことにあやかって、靭という町名が付けられたと伝わっています。
寛政8年(1796)刊行された摂津名所図会には、「永代浜干鰯市、海部掘りにあり
」と記されています。 (早稲田大学図書館蔵)
靭塩干魚市場があった永代浜は、寛永元年(1624)に海部堀川町、新天満町、新
靭町の靭三町の塩干魚商人が荷揚げのため開削した海部掘川の一部で、江戸
幕府から「永代諸魚干鰯市場揚場」として公認されていました。
明治18年(1885)の永代浜の測量図です。
海部堀川の東端に永代浜、永代浜から南に細長く永代堀川が記されています。
永代浜に荷揚げされた干鰯の多くは、農業用の肥料として使われていたため、享
保9年(1724)には干鰯俵数は140万俵になったと記録されています。
昭和6年(1921)に大阪中央卸売市場の開設でその歴史に幕を閉じることになり
ます。
昭和25年(1950)の靭付近の航空写真です。
白色の矢印の所が京町堀川、青色の矢印の所が阿波座堀川、黄色矢印の所が
一部残った海部堀川になります。
現在の靭公園にあたる所に滑走路が写っています。
靭は昭和20年3月の大阪大空襲で一面焼け野原になったのですが、敗戦間
際の陸軍は本土決戦に備え焼け野原に飛行場を建設してしまいました。
敗戦後すぐに占領軍はこの飛行場を接収し、米軍専用の飛行場として接収解
除の昭和27年(1952)まで使用を続けました。
接収解除で返還になった靭の地は公園に姿を変えることにます。
昭和30年(1955)に現在の靭公園が開園しました。
靭公園を横断するなにわ筋に面した靭公園内にある楠永神社です。
楠永神社は永代浜に建立されていました。
楠永神社は、淡路町の御霊神社に鎮座する摂津国津村郷の産土神・布良彦神
と津布良媛神の二柱(神)が祀られていた神社です。
二柱(神)が淡路町に遷座してからはクスの大木を、楠永・楠玉大神神籬として
信仰を集めています。
靭公園から中之島に向けて散策を続けます。
今日もお付き合いありがとうございました。