浄瑠璃が本格的に芸術性を備えるようになったのは、
江戸時代に入ってからの事になります。
松山丹後掾と薩摩淨雲によって、
京から江戸にもたらされた浄瑠璃から
多くの流派が生まれました。
しかしこの時期の詞章・戯曲は未熟なものが多く、
義太夫節を除き一括して古浄瑠璃に分類されています。
竹本義太夫(改め筑後掾)の肖像画です。(注・1)
寛政8年(1796)刊行の摂津名所図会
道頓堀芝居小屋の絵です。(注・2)
貞享元年(1684)の頃に、竹本義太夫(後の筑後掾)が
道頓堀に竹本座を開設した後は、義太夫節は新時代を迎えます。
近松門左衛門の肖像画です。(注・1)
竹本義太夫は戯曲家近松門左衛門と結ぶことによって、
戯曲の文学的な成熟と詞章の洗練さがなされ、
人形浄瑠璃は芸術的なものとなっていきます。
竹本義太夫は貞享元年(1684)人形浄瑠璃の小屋に
座付き作者として近松門左衛門を迎え、
興行的に大成功を収めることになります。
武田出雲の肖像画です。(注・1)
竹本義太夫は経営を武田出雲にゆずり、義太夫は
太夫に専念することになります。
その後、近松や出雲の死後は人形浄瑠璃は衰退し、
明和4年(1767)にその歴史に幕を閉じることになります。
植村文楽軒と難波神社です。(注・1)
竹本義太夫がなくなってから衰える一方だった人形浄瑠璃は、
淡路島出身の植村文楽軒によって
受け継がれてゆきます。
文化年間に大坂高津橋近くに小さな浄瑠璃小屋が開かれ、
寛政8年刊行の摂津名所図会
難波神社(稲荷神社)の図です。(注・2)
文化8年(1811)には二代目植村文楽軒が、
稲荷神社境内に進出します。
摂津名所図会に記された御霊神社です。(注・2)
明治5年に大坂松島新地に劇場を建てた文楽軒は、
新しい劇場を文楽座と命名した。
稲荷神社境内に弟子であった豊竹内太夫が豊竹座を建てると、
明治17年(1884)文楽軒は御霊神社の境内に移り、
「御霊文楽座」として全盛を誇ります。
御霊文楽座は大阪で唯一の人形浄瑠璃の劇場となります。
明治35年当時の御霊文楽座の舞台です。(注・1)
その後文楽座で興行される人形浄瑠璃を指して、
「文楽」と呼ばれることが多くなり人形浄瑠璃が、
『文楽』と呼ばれるようになりました。
次回から文楽座めぐりをします。
今日もお付き合いありがとうございました。
画像(注・1)は文楽協会より借用しました。
画像(注・2)は早稲田大学図書館より借用しました。
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